NumberPREMIER ExBACK NUMBER
「勝って当たり前と思っていたんじゃないですか?」立浪和義がいま明かすPL学園“黄金時代”の真相「そんなことありません。プロと違って…」
text by
生島淳Jun Ikushima
photograph byKatsuro Okazawa / Kiichi Matsumoto
posted2024/08/17 17:00
甲子園で全国制覇を果たしたPL学園時代を語った中日・立浪和義監督
「僕らの学年は18人でしたかね。当時としては、かなり少ない部員数じゃないでしょうか。ただし、各方面から“選ばれた人”が集まってきた印象はありました。実際、投手陣は充実していて、甲子園ではプロに進んだ橋本、野村、それに岩崎(充宏/青山学院大→日本製鉄東海REX)と、それぞれタイプの違う投手がいて、しかも3人が高い水準の投球をする。高校野球のレベルでは、群を抜いていましたね。井元先生が長年中学生を見てきた眼力に狂いはなかったんだと思います」
そしてこの「18人」という数字にも強さの秘密が隠されている。昭和も終わりのころ、甲子園の常連校といえば100人を超える大所帯が当たり前だった。激しい競争を勝ち抜いた選手だけがユニフォームをもらえる。つまりは熾烈なレギュラー争いを勝ち抜いた者がグラウンドに立てば、自然とチーム力は上がっていくという発想をする監督がほとんどだった。
清原の証言「PLは人数も少なくて1年生から練習できそう」
しかし、PLは人数を絞った。なぜか? ひとり当たりの練習量を十分に確保するためだった。立浪の2学年先輩にあたる清原は、中学3年時に進学先の候補をPL学園と天理に絞った。清原は思い出す。
「天理に練習見学に行ったら、部員が100人以上いて、1年生は外野で球拾いさせられていました。ところが、PLは人数も少なくて、1年生から練習ができそうだったんで、それでPLに決めました。どれだけ厳しい学校か知らないまま(笑)」
高校野球の練習現場のマネジメントで難しいのは、打撃練習時間の確保である。打撃練習は極めて効率が悪く、グラウンドではバッティングケージ2台しか設置できない。名門校の練習見学に行くと、別の場所で狭いながらもトスバッティングをするなど、可能な限り同時に打撃練習をする工夫を続けている。しかし、PLは違った。
【続きを読む】サブスク「NumberPREMIER」内の【インタビュー】主将・立浪和義が明かすPL学園“最強の理由”「編成力がありました」「昭和の高校野球の最高到達点」《ドラゴンズ指揮官の回顧》で、こちらの記事の全文をお読みいただけます。