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「勝って当たり前と思っていたんじゃないですか?」立浪和義がいま明かすPL学園“黄金時代”の真相「そんなことありません。プロと違って…」 

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生島淳

生島淳Jun Ikushima

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photograph byKatsuro Okazawa / Kiichi Matsumoto

posted2024/08/17 17:00

「勝って当たり前と思っていたんじゃないですか?」立浪和義がいま明かすPL学園“黄金時代”の真相「そんなことありません。プロと違って…」<Number Web> photograph by Katsuro Okazawa / Kiichi Matsumoto

甲子園で全国制覇を果たしたPL学園時代を語った中日・立浪和義監督

【1985年】
今久留主成幸(明治大→大洋→西武)
清原和博(西武→巨人→オリックス)
桑田真澄(巨人→パイレーツ)
内匠政博(近畿大→日本生命→近鉄)
松山秀明(青山学院大→オリックス)

【1986年】
霜村英昭(ヤクルト)

【1987年】
片岡篤史(同志社大→日本ハム→阪神)
立浪和義(中日)
橋本清(巨人→ダイエー)
野村弘樹(大洋)

【1988年】
宮本慎也(同志社大→プリンスホテル→ヤクルト)

 この4学年で11人、しかもそのポジションは投手、捕手、内野、外野と満遍なく好選手を輩出している。つまりバランスの良い勧誘ができていたということだ。それを立浪に伝えると、首肯しながら話を続けた。

「当時のPLには間違いなく『編成力』がありました。各学年だけでなく数年にわたってチームが機能していくように、各ポジションごとにバランスよく選手を勧誘していたと思います。プロ野球には編成担当がいて、チーム作りの中核を担いますが、PLには中学生の勧誘を担当される井元先生がいらっしゃいました。私は他の学校に進学することも考えていたんですが、井元先生に声を掛けていただき、PLに進むことを決めましたから」

 井元俊秀。PLの黄金時代はこの人物を抜きにしては語れない。'62年、PLが初めて夏の甲子園に出場した時には監督を務め、その後は全国の有望な中学生を観察し、勧誘に成功してきた。

 そのなかには打撃の天才・新井宏昌、大ケガがなければ巨人の主砲に成長していたに違いない吉村禎章、'78年の夏の甲子園では劇的な逆転劇で勝ち進んだ西田真二、木戸克彦のバッテリー、そして現在はNHKで解説を務める小早川毅彦ら、日本のプロ野球を彩った名前が並ぶ。立浪の後輩にはメジャーリーグでプレーした福留孝介もいる。

練習量を確保するため部員数を絞った

 これだけの選手が集まれば強いのは当たり前――やっかみも含め、そう思われる面もあったが、PLが異色だったのは、部員数が少なかったことだ。立浪は振り返る。

【次ページ】 清原の証言「PLは人数も少なくて1年生から練習できそう」

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