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立浪和義がいたPL学園「野球部は解散だ」悲劇から最強チームに…桑田・清原3年時に入学、関係者明かす“タツの素顔”「批判される現状ですが…」
posted2024/01/11 11:01
text by
柳川悠二Yuji Yanagawa
photograph by
AFLO
2年連続最下位から勝負の3年目を迎える中日・立浪和義監督。どうすれば逆風を追い風に変えられるのか――PL学園時代のエピソードやプロ野球関係者の証言、監督2年間の検証を通して、2024年シーズンの光明を見出してゆく。〈#2「伝説のPL学園時代」/全8回の2回目〉
立浪和義とPL学園の同期生である野村弘樹(元横浜)は言う。
「タツほど正直で、真摯に野球と向き合ってきた男はいません。1年や2年で結果を残せるのなら誰も苦労しない。ここまでの2年間は土を耕し、種をまいてきて、岡林(勇希)のような若い芽がようやく出てきた状況です。結論を出すにはまだ早い。あらゆることが批判されてしまう現状ですが、悲観はしていません」
チームを統率する立浪の原点は、主将を務め、1987年に甲子園の春夏連覇を達成したPL学園時代にある。
桑田・清原が3年時…1985年にPL入学
立浪が同校に入学したのは、1985年だ。当時のPLには、桑田真澄、清原和博のKKコンビが3年生として君臨し、4季連続で甲子園に出場中だった。実力、人気共に絶大だったPL学園の最盛期にあたる。
しかし、いくら中学生が入学を希望したところで、誰もがPLの門をくぐれるわけではない。必ずある人物のお眼鏡にかなう必要があった。その男とは、伝説のスカウトと呼ばれる井元俊秀。PL学園の1期生で、初めて同校が甲子園に出場した時の監督である。その後、学園の母体であるパーフェクトリバティー教団の2代教祖・御木徳近の存命中(1983年に死去)に厳命を受けて、中学生のスカウティングを担当し、80年代から90年代にかけて常勝軍団を陰から支えた。
井元は立浪が在籍していた茨木ナニワボーイズに足を運び、エースの橋本清(元巨人ほか)と、遊撃を守っていた立浪のふたりの才能に惚れ込み、PLに導こうとした。井元は言う。