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「僕は決してメンタルは強くない」。原晋監督に駅伝男と称された太田蒼生を救ったプラスワンの存在とは?

posted2025/03/15 11:00

 
「僕は決してメンタルは強くない」。原晋監督に駅伝男と称された太田蒼生を救ったプラスワンの存在とは?<Number Web> photograph by Kiichi Matsumoto

text by

和田悟志

和田悟志Satoshi Wada

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Kiichi Matsumoto

先日の東京マラソンで初のマラソンに挑んだ太田蒼生。青山学院陸上部での4年を振り返りながら、この先のランナーとしての未来を語る。

「100%ではないんですけど、80%ぐらいは想定通り。目標もある程度達成できて、充実した4年間だったと思います」

 幾度となく駅伝で強烈なインパクトを残してきた太田蒼生は、青山学院大での4年間をこのように振り返る。

「故障しにくい体を作って、箱根で区間賞と区間新、総合優勝を達成したいと思っていました。区間新だけは達成できなかったんですけど、総合優勝3回と区間賞2回獲得はできたし、故障しにくい体も作れてきました」

 100点満点ではなかったのは、箱根で区間記録保持者になれなかったことと、出雲駅伝と全日本大学駅伝では満足のいく結果を残せなかったから。とはいえ、大方は入学当初に思い描いた通りのパフォーマンスを見せてきた。

 太田はもともとサッカー少年だったが、中学2年で陸上競技に転向した。

「集団競技は、ミスしたらどうしようっていう恐怖が大きくて、自分はあまり楽しめなかったんです。結果もあまり出なかったですし。

 陸上競技は、良くも悪くも、ほぼ100%自分の力が結果に反映される。相手との勝負、駆け引きを楽しめるようになっていきました」

 陸上を始めて、めきめきと力を付けた太田は、1500mと3000mの2種目で全日本中学校陸上競技選手権に出場した。

「3000mは決勝に残ったんですけど、決勝は下から2番目。1500mは、3000mの疲労もあって予選落ちでした。同じ福岡県に石田君(洸介、東洋大→SUBARU)がいるんですけど、彼は1500mも3000mもどっちも優勝していました。絶対にいつか超えてやろうっていう気持ちになりました」

 全国の舞台では高い壁にぶち当たったが、太田がめげることはなかった。むしろ悔しさを糧にして上を目指した。

 そして、強豪・大牟田高に進むと、駅伝日本一を目指してさらなる努力を重ねた。

「日々が同じことの繰り返し。特に合宿はずっと苦しい思いばかりです。故障も多かったですし。でも、高校時代の部活で必要なことはすごく学べました」

 全国高校駅伝で優勝は果たせなかったものの、太田は3年連続で出場しいずれも区間上位で走り切った。この頃にはもう、後の活躍の片鱗を覗かせていたというわけだ。

「中学生、高校生にはたくさん迷ってほしいですね。正解はないので、迷えば迷うほど、人生って深くなるし楽しくなると思うんです。一番活力があり、夢が美しい時期だと思うので、やりたいことやなりたいものに向かって全力で悩んで努力してほしい。この時間は二度と戻ってこないので、大事にしてもらいたい」

 当時の自分を思い返して、中学生や高校生の部活アスリートに太田はこんなアドバイスを贈る。

 太田はとにかく本番に強い印象がある。とりわけ箱根駅伝での活躍は、原晋監督に“駅伝男”と言わしめるほど、すさまじいものだった。

「青学って各自ジョグっていうメニューが多いんですけど、自分でコーディネートするというか、自分で作り上げていくので、僕の体はどういうジョグをしたらどうなるのか、いろんなピーキングの方法を試しました。PDCAサイクルを回して試行錯誤し取り組んできました」

 そうやって自身にとっての最適解を探り、目標とする大会に調子のピークを合わせてきた。

 太田にタスキが渡れば、必ずや先頭まで押し上げる――そんな頼もしさがあった。太田はタスキと共に周囲の期待感を背負って駅伝を走ってきた。

「駅伝はチーム戦ですし“結果を残さなくちゃいけない”っていうのはあります。でも、そこに対して恐怖はありません。むしろプレッシャーをワクワクするマインドに変えられるというか……」

 ここまで話したところで、太田は言葉を止め、一拍を置いてから再び言葉をつないだ。

「“変えられる”っていう言い方はちょっと違いますね。そもそもワクワクとしか捉えられない。“僕の力ってどれぐらいあるんだろう?”みたいな。僕にとって、そういった大きい大会というのは、大きいお祭りに行くような感覚と同じなんです。例えば、箱根は人生で多くても4回しか走れません。その舞台を楽しむ。そんな感覚でしたね」

 言葉を慎重に選びつつ、そんな発言をする太田は、どこまでも強心臓の持ち主なのだろう。そう思っていた。

 それだけに、太田が口にした言葉には耳を疑った。

「僕は割とメンタルは弱いので……」

 レースでの迷いない走り、堂々とした立ち居振る舞いを目にしてきた限りでは、にわかには信じがたかった。

「ストレスに弱いですし、失敗があると、かなり落ち込みます。一旦落ち込むと、どん底まで落ち込みます。モチベーションも下がり、ミスも増えますし。メンタルは弱いですね」

 太田はこう説明する。

 特に落ち込んだのは、ケガが長引いて、3~4カ月間も走れないことが続いた時だったという。4年間かけてケガをしない体作りを徹底してきたが、下級生の頃はケガが多かった。現に1、2年生の時は、箱根では圧巻の走りを披露した一方で、出雲駅伝と全日本大学駅伝には出場できなかった。

 そんな苦しい時でも、太田が気持ちを切らさずに済んだのは「同期」というプラスワンの存在があったからだった。

「部活のチームメイトは一番身近な環境で刺激し合える存在。ようはライバルといった存在かなと思います。

 僕がケガをして走れない時に結果を出されると悔しい。“早く復帰してやろう”という気持ちにさせられましたし、“復帰した時には見ていろよ”と闘争心を掻き立てられました」

 中学から大学までを通して、チームメイトの活躍が太田の負けん気を刺激していた。

 また、青学のチームメイトは「僕はマイペースな人間」という太田の性格を理解して、走れない時期には「焦らなくても、試合で走れればいいよ」と声をかけてくれたという。

「僕のことを受け入れてくれる人が多くて、落ち込んだ時にも支えてくれた。本当に助けられました」

 太田が同期で特に仲が良かったのが、白石光星だった。白石は練習の虫。地道な努力を重ねて青学大の主力に上り詰めた。“天才型”と称される太田とは、また違ったタイプのランナーだ。

「白石選手とはよく遊びに出かけたり、食事に行ったりしていました。そういった時にいろんな話をして、相談事を聞いてもらったり、逆に聞いたりしました」

 白石もまた平坦な4年間を歩んできたわけではなかった。大学三大駅伝のデビュー戦となった2年時の全日本大学駅伝では、2区16位と振るわず、11人抜かれという屈辱を味わっていた。太田も白石も下級生の時に苦しい時期がありながらも、4年目には共に箱根の優勝メンバーに名前を連ねた。

 同期はみんな仲が良かったという。しかしながら、ただ仲が良いだけではなく、馴れ合わないのも青山学院大というチームだ。

「しっかり注意できる関係性が青学にはありました。僕も厳しいことを言うこともありましたし、言われたこともたくさんありました」

 互いの意見を尊重しながらも、厳しく接することができていたからこそ、抜かりのないチームが築けたのだろう。

「本当に人と人とのつながりが熱いチームだと思います」

 太田に“青山学院大はどんなチームだったか”を尋ねると、こんな答えが返ってきた。各メディアを通して見る太田には“孤高”かつ“クール”なイメージがあっただけに、意外な言葉に思えた。

「困難を乗り越える時に支えとなるのは、4年間っていう期間に限定すれば、身近に接していた同期や監督、寮母さんになりますし、人生っていうスケールでは、やっぱり家族になる。今後は新たに関わる方がそういう存在になっていくと思います」

 太田は人とのつながりを大事にし、これまでの競技者生活を送ってきた。そのスタンスはこれからも変わらない。

 それでも、大学卒業後は、GMOインターネットグループに所属しながらもコーチも付けずに一人で競技者生活を送ることを決めた。

「一人って難しいと思う人がたぶん多いと思うんです。でも、僕には一人でやっていくイメージしかなかった。〈どこでやる〉〈誰とやる〉とか〈何をやる〉といったことよりも、〈どのように考えて、何のためにやるか〉が大事だと思う。一人という環境だったら、自分が考えたことをそのまま練習に反映できるので、そこはメリットだと思っています」

 困難がつきまとうのは覚悟の上で、太田はこのような選択をした。

 太田は大学最後のビッグレースに3月2日に開催された東京マラソンを選んだ。

 今秋の東京2025世界陸上の日本代表がかかった一戦だ。スタートエリアは、ピリッとした緊張感に包まれていたのではと思いきや、太田にはどこ吹く風だった。

「自分の世界に入っているんで、周りは気にならなかったです。世界を経験するのとしないのとで違うのでもちろん世界選手権は出たかったですけど、目標はそこではないので……」

 こう話すように、初マラソンに挑んだ太田は、選考レースとは別の次元でレースに臨んでいた。

 目標タイムが2時間1分台に設定された先頭集団に位置どり、世界トップのハイペースに果敢に挑んだ。中間点はハーフマラソンの自己ベストよりも1分以上速く、30kmの通過タイムは、参考ながら日本学生記録を上回っていた。

 結果的に低体温と低血糖のため36kmで途中棄権に終わったものの、太田に悔いはない。

「世界のレベルを肌で感じて、本当に価値のあるレースになったと思います。すごく楽しかったです」

 こうきっぱりと言い切る。初マラソンでの失敗は承知の上。むしろチャレンジングなレースを試みて、得られたものは大きかった。

「初マラソンでは経験不足、知識不足があって後半ダメになってしまいましたが、そこを改善すればもう少し世界と戦えるのかなと思いました。単純に僕の力不足もありますが。世界との距離は、近くはないんですけど、めちゃくちゃ離れているとも思わなかったです。マラソンの適性はあると思います」

 陸上を始めた中学2年生の時に「マラソンで金メダルを獲得」という目標を掲げ、それをぶれさせることなく持ち続けてきた。それを叶えるため、マラソンランナーとしての太田の挑戦がいよいよスタートを切った。

太田 蒼生AOI OHTA

2002年8月26日生、福岡県出身。篠栗町立篠栗北中学校で陸上部に入部。大牟田高校時代は全国高等学校駅伝競走大会に3年連続出場。青山学院大学陸上競技部では4年連続で箱根駅伝に出場し、3年、4年時は区間賞を獲得。大学卒業後はGMOインターネットグループの選手として競技を継続予定。

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