“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
J8クラブ渡り歩いた“調子乗り世代”。
満了宣告も、希望溢れる第二の人生。
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byYu Hasegawa
posted2020/03/08 11:50
オーストラリアの独立リーグ、ウロンゴン・オリンピックへの入団が決まった長谷川。Jクラブとは比べ物にならない環境ではあるが、希望に満ち溢れていた。
所属が決まらなくても、帰国は考えず。
当初は国内トップレベルのAリーグを希望してクラブに自身のプレー映像を送ったが、叶わず。田代が所属していた下部リーグのクラブにもアタックをかけたものの、話は途切れるばかり。どのチームもストライカーが足りている状況で、日本人の“助っ人”に求めるのは技術に長けた中盤の選手ばかりだった。
「僕のような長身FWは自国やヨーロッパ、南米で補えるからなかなか必要とされなかったんです。でもなぜか諦めて帰国しようとは思わなかった。それで有三さんが『バイトをしないといけないくらいの金額にはなるけど、興味を示してくれているチームがある』と教えてくれた。それが地域リーグに所属するチームの1つであるウロンゴン・オリンピックだったんです」
これまでJ1リーグ178試合(26得点)、J2リーグ113試合(19得点)をマークしている経験豊富な選手が、実質3、4部相当のチームの練習に参加をする。もし長谷川自身にこれまでの実績に対するプライドがあれば、話にならないオファーだろう。
「でも、なんか面白そうだなと。アメリカやカナダのクラブに行く選択肢もあったのですが、これも縁だなと、ウロンゴンの練習に参加しようと思ったんです」
自分の操縦席に自分が座っている状態。
練習場のグラウンドはボコボコで、ボールの空気も満足に入っていない。同僚となる選手のレベルも決して高いとは言えなかったが、なぜか純粋にサッカーを楽しめた。
「最初は当然みんな僕のことを知らないので、『誰だコイツ』という目で見ていたのですが、練習試合に出場をして、そこで前半から点を取りまくったら、『とんでもない奴が来たぞ!』と周りのテンションがどんどん上がっていくのを感じたんです。前半終了時点でスタッフから『今すぐにでも契約をしたい!』と言われて、嬉しかったというか。サッカーを始めた頃、山梨から流通経済大柏を選んだ時に感じていたものを思い出したんです。(チームメイトが)話しかけてきてくれる感触が本当に懐かしかったし、心から楽しいなと」
これこそが、長谷川が求めていたものだった。
「自分が自分らしく生きるにはどうしたらいいかはずっとテーマとして持っていた」と語る彼には、大切にしている言葉があった。それは『幸せは自分の操縦席に自分が座っている状態のことを指す』という言葉だ。
「よくあるパターンとして、気がついたらその操縦席に誰かが座ってしまって、自分をコントロールされてしまう。そうならないためには、自分を持つことが大事。このまま日本でJリーグやプロサッカー選手にしがみついていると、それこそ視野が狭まって息苦しくなってしまうのではないかと思ったんです。
それに今後、自分がサッカーを辞めた後に家族に生活面で苦労させたくない。サッカー選手として身体が動くうちに、引退後の生活の土台となる仕事をするための経験やスキル、人間としての知見の幅を広げたいと思った。そうなると新たな人生の1歩目はこのオーストラリアでスタートさせて、その中で大好きなサッカーをしたいなと。あの純粋な気持ちにも触れることができて、『ここだな』と感じたんです」