“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
J8クラブ渡り歩いた“調子乗り世代”。
満了宣告も、希望溢れる第二の人生。
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byYu Hasegawa
posted2020/03/08 11:50
オーストラリアの独立リーグ、ウロンゴン・オリンピックへの入団が決まった長谷川。Jクラブとは比べ物にならない環境ではあるが、希望に満ち溢れていた。
「視野が広いな、考え方が違うなと」
自身の行いだけに留まらず、チームメイトとの出会いも長谷川を変えていった。清水時代にチームメイトとしてプレーしたオーストラリア代表FWミッチェル・デュークとコミュニケーションを積極的に取った。
「片言の英語や通訳の方を交えての会話でしたが、デュークからはオーストラリアの日常生活を聞いて物凄く興味が湧いたんです。休日は海に行ったり、カフェに行ったり、のんびりしたいい所だよとか、サッカーをする上では日本の方がいいよとか、本当にいろんなことを聞いた。
それに通訳の人も他文化をよく知っている人だったので、ふとしたことで視野が広いなとか、考え方がちょっと違うなという印象を受けたんです。僕自身、音楽が好きで、海外の音楽を通じて文化や価値観などを感じて、興味が膨らんでいた時だったので、海外に行くことも選択肢に入るようになりました」
どこに行っても、誰かの代わり。
清水を契約満了で退団した時も、一度は海外移籍を視野に入れたことはあった。だが、「まだJリーグでやりきりたいという思いがあった」と話すように、現実的な選択肢には入れなかった。
「僕はどこに行っても、『〇〇の代わり』なんです。山形の時も怪我をした豊田陽平(現・サガン鳥栖)くんの代わりだったし、大宮でもラファエルのサブとして入ったし、清水では怪我をした大前元紀(現・ザスパクサツ群馬)の代わり。なんなら調子乗り世代と呼ばれたU-19、U-20日本代表の招集もハーフナー・マイク(前バンコク・ユナイテッド)が怪我でいないときだけに呼ばれるような存在でしたから(笑)。
FWが欠けたクラブを渡り歩いて来た自分だからこそ、そろそろ『どうしても必要だ』と思ってくれるクラブで活躍をすることで、自分の中で『やりきった』という思いを味わいたかったんです。それがJリーグに対する未練でした」
日本人では稀有な高さと技術をあわせもつストライカーは、Jクラブでも重宝される一方で、絶対的存在になることはなかった。8クラブ目となった長崎も移籍市場ギリギリで入団が決まった状態で、いわば“補充”の立ち位置。J2リーグで13試合に出場も、スタメン出場はわずか3試合。ゴール数も「2」に終わり、契約満了が告げられたのだった。
「J1、J2からのオファーは来ませんでした。でも、逆に選択肢が一気に増えた気がしたんです」