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岡田彰布34歳の苦言「ほんまに優勝したいんか!」“屈辱の代打”事件で後輩が謝罪…阪神“暗黒時代”にも「9月失速」、戦力外通告までゴタゴタ
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph byJIJI PRESS
posted2023/11/04 17:42
1992年の岡田彰布(当時34歳)。1979年ドラフト1位で阪神に入団した岡田は、翌93年に戦力外通告を受ける
《92年の優勝を争った年でしたよ。最後はスタメンを外れていることが多かったけれど、チームに集中力みたいなものが見られなくて、某コーチに「本当に優勝したいんか」と文句を言ったこともありました。優勝するためになんとかバックアップをという気持ちは失っていなかったんですけど……最後の大事なとこでヤクルト、中日、ヤクルトと3連敗して優勝を逃した。チームの状態を冷静に見ていた私には、勝てない原因がなんとなく見えていました。やはり気持ちなんですよね。あの体験は本当に生きていますよ》(前掲書)
岡田はまた、別のところで、優勝するチームには支えとなる選手が必要だとも説いている。
《やはりチームには柱というか、支える存在が必要なのである。そこにふさわしいのは常に試合に出続ける選手。そう思ったのは阪神での最後のシーズン、92、93年あたりだ。この頃、もちろん私は4番を打たなくなってたし、出場機会も大きく減った。そうなると自分ではチームを引っ張ろうとは考えていても、やはりできなかったのだ》(岡田彰布『頑固力 ブレないリーダー哲学』角川SSC新書、2008年)
不満が募った“戦力外通告”
岡田は翌1993年のシーズン終盤、球団から戦力外を告げられ、翌年よりオリックスに移籍して1995年に現役を引退した。彼は戦力外になるまで、球団の辞令より先にマスコミ報道が先行するので、不満が募ったという。いまでこそ“マスコミ辞令”が先走り、フロントが選手をないがしろにするような対応は少なくなったというが、かつての阪神球団はマスコミ辞令の後手に回り、そのために何度となく選手とゴタゴタを繰り返してきた。そうした体質が、阪神を長らく優勝から遠ざける一因となったことは間違いない。
球団の選手対応ばかりでなく、監督と選手の確執を含め、阪神のお家騒動はある時期までマスコミの格好のネタにされた。1973年のシーズン、V9を目指す巨人と最終戦まで優勝を争いながら結局逃したのも、まさに選手たちと監督・球団との確執に要因があった。
<4回目《1973年編》へ続く>