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岡田彰布34歳の苦言「ほんまに優勝したいんか!」“屈辱の代打”事件で後輩が謝罪…阪神“暗黒時代”にも「9月失速」、戦力外通告までゴタゴタ
posted2023/11/04 17:42
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph by
JIJI PRESS
今年流行語になった岡田彰布監督の「アレ」。じつはオリックス時代に使い始めた「アレ」がなぜ阪神で流行ったのか? ここでは、阪神ファンがトラウマになった“まさかの失速”4選をたどっていく。3回目は1992年編。【全4回の3回目/#1、#2、#4へ】
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1992年“大失速”はこうして始まった
2005年の阪神は、すでに優勝を経験している選手が多かったがゆえ、それがかえってチームに仇となった面があった。これに対し、優勝を経験したベテラン選手を主力から外したのが仇となり、一時は優勝に手が届くかと思われながらも、終盤で失速したのが1992年である。この年は、阪神が1985年の優勝と日本一達成のあと、翌年の3位を最後に、2003年の優勝までほぼBクラス(うち最下位は10回)に沈み続けた“暗黒時代”にあって唯一優勝争いに食い込んだことで記憶される。
この年の奇跡を呼び込んだのは、亀山努(現・つとむ)と新庄剛志を筆頭とする若手選手たちだった。もっとも、亀山と新庄が活躍するにいたったのは、実力もさることながら幸運によるところも多分にあった。
プロ入り5年目の亀山はこの年初めて開幕一軍メンバーに選ばれたものの、あくまで開幕2カード目から登録予定の先発投手たちの“交代要員”にすぎなかった。それが開幕2試合目のヤクルト戦(4月5日)、延長10回の打席で、勝負を決定づけるダメ押しの2点タイムリーを放ったので、一軍に残してもらえたのだという。
亀山はその3日後の巨人戦で初スタメン入りを果たすと、平凡なセカンドゴロを果敢なヘッドスライディングでセーフにして、その存在を強く印象づけた。以来、ヘッドスライディングは彼の代名詞となる。このときのスタメン起用も、当時の監督・中村勝広からすれば「元気だから一度、スタメンで使ってみようか」という軽い乗りだったらしい(『ベースボール・マガジン』2021年10月号)。
衝撃の「初打席&初球ホームラン」
入団3年目の新庄にいたっては、開幕時点で当時存在した選手登録40人枠にさえ入っておらず、本来ならシーズン中には一軍昇格できない立場だった。