甲子園の風BACK NUMBER
「何百万円というボーナスを捨てて、教師になるなんてお前バカか?」東大を卒業して高校野球監督になり甲子園に出場した“伝説の男”
text by
沼澤典史Norifumi Numazawa
photograph byNIKKAN SPORTS
posted2023/07/31 17:57
1990年3月、センバツ甲子園。伊奈学園(埼玉)のエース・銭場一浩。同校を率いたのは東大出身の三角裕監督だった
「1年目から野球部の監督をやれと言われたのは嬉しかったのですが、創立年なので1年生しかいないし、まだグラウンドも工事中。近くの町営グラウンドを借りましたが、硬式球のバッティングが不可だったため、もっぱら練習は、キャッチボールと素振りだけでした」
ないない尽くしの練習環境。しかも、新設校は不良だらけなのではと案じる周辺住民への対策として、当時は校則が厳しく、18時には完全下校のルールがあった。これでは実質1時間半しか練習ができないため、三角は朝練を導入し、毎朝5時半に起きて、以後離任までの13年間、欠かさず7時からグラウンドに立った。
開校の翌1985年に野球部は2期生を迎え、高野連に加盟して、甲子園予選に出場。この頃には野球部以外の運動部も活動するようになり、それにともなって下校時間のルールはなし崩し的に消滅。心置きなく練習ができるようになり、3年目には両翼100メートルほどの広大な専用グラウンドが完成した。
野球指導者として、まっさらな状態からチームを作り上げるのは、稀有な体験だったろう。これだけでも三角は幸せ者だが、野球の神様はさらに彼を愛する。1990年、創部6年目に春の選抜甲子園への切符を手にしたのだ。前年の秋に埼玉県で優勝し、関東大会でベスト4に入った実績が評価されたものである。
なぜ甲子園に出場できたのか?
このサクセスストーリーの裏には、どのような指導があったのだろうか。
「選手の自主性を大事にしながら、全員にチャンスを与えるようにしました。全員平等に練習させ、練習試合でも使う。また、夏の大会などのベンチ入りメンバーは選手間の投票で決めました。高校野球は選手間や保護者など、中でゴタゴタしてしまうことが多いんですが、平等にチャンスを与えた選手たちによる投票なら文句のつけようがない。監督としての責任放棄の批判はあるでしょうけど、監督としてやるべきことをやったうえでの投票なら、よりグラウンドやプレーに集中できるというメリットが大きいわけです」
平等にチャンスを与え、可能性を開花させる──。その象徴的な存在は、甲子園出場時のエース・銭場一浩だ。入学当初の銭場は、「学年で10人いるピッチャーのうち目立つ存在ではなく、その他大勢のひとり」というのが、三角の評価だった。ところが彼は、三角のもとで覚醒していく。