甲子園の風BACK NUMBER
「何百万円というボーナスを捨てて、教師になるなんてお前バカか?」東大を卒業して高校野球監督になり甲子園に出場した“伝説の男”
text by
沼澤典史Norifumi Numazawa
photograph byNIKKAN SPORTS
posted2023/07/31 17:57
1990年3月、センバツ甲子園。伊奈学園(埼玉)のエース・銭場一浩。同校を率いたのは東大出身の三角裕監督だった
「高2の春までダメだったやつ」がエースに
「春の大会は2年生だった銭場が先発し、地区予選でコールド負けしました。その後、彼はエース格でもなかったので、思い切って夏の大会前にサイドスローに変えさせたんです。すると秋の大会では彼が8試合中5試合を完封して、埼玉県大会を優勝。翌春の選抜甲子園では金沢高校に1点差で負けましたが、彼は卒業後、東洋大と東芝で主軸として活躍しました。高校の2年春までダメだったやつが、投げ方をちょっと変えただけでこんなにも変わるんですから、まさに、野球と学生の可能性を感じさせてくれた選手でした」
銭場は東洋大でも1年生の春から大活躍し、東都リーグ一部優勝の立役者としてMVPと最優秀投手賞を獲得。青山学院大の四番・小久保裕紀(元ダイエー、巨人、ソフトバンク)は、あまりに銭場を打てないためにノイローゼ寸前になったという。卒業後の銭場は、東芝でも第70回都市対抗野球で優勝、第28回社会人野球日本選手権で敢闘賞を受賞するなど大車輪の働きぶりを見せた。
「野球において、体力強化などの地道なトレーニングは欠かせませんが、トレーニングは足し算だとすると、技術的なコツやきっかけは、かけ算のようなもの。野球の魅力はたくさんありますが、私にとっては選手がこちらの想像を超えて成長するのを見るのが一番の楽しみです。銭場は、その好例ですね」
「教師を辞めるなんて、お前はバカか?」
銭場以降の伊奈学園は、県大会ベスト8の常連チームとして知られる存在になっていく。だが、この頃の三角は、自身の采配や選手の育て方が保守的になっていることに気づいたという。すなわち「負けない野球」である。
その反省から、豪快に打ち勝つチーム作りにシフトしてみたこともあるが、意気込みは空回りして1回戦で敗退。再び、負けない野球に回帰していった。
そんな三角のもとに、東大野球部から監督就任のオファーが届いた。東大で「負けない野球」などありえないことは、三角もよく知っていた。東大が勝つには、ギャンブルで勝つしかないのだ。