甲子園の風BACK NUMBER
「何百万円というボーナスを捨てて、教師になるなんてお前バカか?」東大を卒業して高校野球監督になり甲子園に出場した“伝説の男”
text by
沼澤典史Norifumi Numazawa
photograph byNIKKAN SPORTS
posted2023/07/31 17:57
1990年3月、センバツ甲子園。伊奈学園(埼玉)のエース・銭場一浩。同校を率いたのは東大出身の三角裕監督だった
新しい野球ができる喜びに燃え、三角はオファーを快諾。1997年に母校の監督に就任した。伊奈学園の校長は、1年だけ東大に行って戻ってくるなら、公務員を辞めずに済むと言ってくれたが、学生は4年いるのに、監督が1年だけというわけにはいかない。バブル崩壊後の不況で、誰もが将来の不安にあえいでいた時期、三角は定年まで勤めた場合の公務員の退職金の額などお構いなしに、学校をあとにした。
「教員になるときも、辞めるときも、『お前はバカか?』とずいぶん呆れられたものですが、六大学野球の監督など、やろうと思ってもできるものではありませんから、あまり悩みませんでした。それまで東大野球部の監督は、所属企業から2年間出向してくる形が多く、チーム作りの期間としては短いですよ。そういう事情もあって、最低でも4年は監督をやれそうな人間ということで、私に声がかかったんだと理解していました」
東大野球部が最下位を脱した
六大学リーグでは弱小と呼ばれる東大野球部を率いるに当たり、三角は選手個々の能力の底上げを最優先課題にした。
「個人の力量差が小さい高校野球ではチームとして戦わなければいけませんが、六大学野球だったらチームで何人ベストナインを作るかがカギです。 つまり、相手チームに通用するバッターやピッチャーを3~4人作り、個々が相手を圧倒しないとリーグ戦では勝てません。だから、長距離を打てるバッターには『お前、ホームランだけ狙え』と言っていました」
実際、その打撃指導がハマり、高校で控えだった児玉光史(2002年卒部・上田)は、4年間で5本のホームランを打っている。東大野球部の歴代最多記録が6本であることを思えば、文句なしの数字と言えるだろう。
可能性をみつけだし、みがく指導は投手についても同様だ。2000年春の明治戦で1失点完投勝利を挙げた井上賢一(2001年卒部・筑波大附)は、もともとはサードだったが、あまりに打てないため、ピッチャーに転向した。ストレートがスライドしてしまう癖を持つ彼は三角の指導でインコースのシュートを覚え、明治の強力打線を幻惑したのである。
また、2001年秋の立教戦に先発して勝ち投手になった児矢野雄介(2002年卒部・宇都宮)は、高校時代はファーストの控え選手。指の長さに目をつけた三角がスプリットを教えるとストンと落ち、彼の強い武器となった。この立教戦をリリーフした中河原修平(2002年卒部・甲陽学院)は、高校時代は帰宅部だったが、大学でアンダースローを教わってポテンシャルを開花させたという。
こうして選手を育てながら勝利を目指した三角の東大監督生活は、東大野球部の歴史上で最長の連続8年間にわたったが、この間にベストナインを5人出している(1998年、2001年、2002年、2003年、2004年に各年1人ずつ)。8年間で19勝を記録し、そのうち1997年秋は最下位を脱した。指導者としては充実していた日々だったのではなかろうか。
<《不良野球部編》へ続く>
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