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心が壊れた「世紀の落球」をネタに…なぜ? G.G.佐藤が語る“人生激変の北京五輪後”「野村さんの助言はすごく響きました」
text by
岡野誠Makoto Okano
photograph byYuki Suenaga
posted2023/02/27 11:01
2008年北京五輪で二度フライを取り損ねたG.G.佐藤は悪夢を受け入れ、近年では自ら落球の話題を発信している。なぜ、吹っ切れたのか
屈辱を晴らすべく翌年、見事に復活を果たす。開幕からレギュラーを確保し、打率2割9分1厘、25本塁打、83打点をマーク。相手のエースに強く、オリックスの金子千尋に4割2分1厘、ロッテの成瀬善久に4割5分5厘、楽天の田中将大にはなんと6割3分6厘とカモにした。北京の落球からどう切り替えたのか。
「どん底の時に支えてくれたファンの人たちに良い姿を見せたいし、もう1回家族を喜ばせてあげたかった。立ち直りの特効薬なんてありません。目の前の練習、試合を一生懸命やるしかなかった。毎日積み重ねているうちに、気付いたら時が経って、心が回復していた。いきなり治る方法なんてないですよね」
資格を次々に取得…“副社長”の今
だが、勢いは続かなかった。2010年は開幕から不振に陥る。自分の打撃を取り戻そうと、睡眠を毎日3時間に抑えてハードワークすると、肉体が悲鳴を上げた。9月には両ヒジと左肩のクリーニング手術に踏み切らざるを得なくなった。翌年、一軍出場なしでシーズンを終えると、33歳で戦力外通告を受けた。
「このまま引退すると、野球が嫌いになってしまうと思った。好きなままピリオドを打つために、イタリアのプロリーグでプレーしました。気持ちに区切りをつけるための儀式って必要なんですよ。イタリア人は他の仕事をしながら、合間に練習をしていた。純粋に野球が好きな選手ばかりだった。日本で結果だけを追い求めていた自分が、イタリアで子供の頃の気持ちを思い出せた。ああ、野球って楽しいんだなと」
その後、富山のクラブチームであるロキテクノを経て、西武時代の恩師である伊東勤監督の誘いでロッテに入団。2013年から2年間プレーして野球人生を終え、父親が社長を務める測量会社『トラバース』に入社した。勉強熱心なG.G.は宅建、2級土木施工管理技士、測量士補だけでなく、保育士の資格まで取得した。現在は副社長として、元プロ野球選手も積極的に雇用している。