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甲子園の風BACK NUMBER
「抵抗する者はバリカンで」「長髪要求で高校生が窓ガラスを…」なぜ高校野球は取り残されたのか? 50年前、“ある24歳監督”が訴えていた
posted2023/08/29 11:02
text by
岡野誠Makoto Okano
photograph by
Keiji Ishikawa
慶応高校(神奈川)の107年ぶりの優勝で幕を閉じた夏の甲子園。大きな話題になったメンバーの長髪について、丸田湊斗外野手は〈髪の毛のことを議論していることが遅いと思うんです。坊主もあってもいいし、それも一つの形だし〉(2023年8月21日配信/東スポWEB)と語った。なぜ、“坊主・非坊主論議”は遅れたのか。戦後の高校野球と髪型の歴史を追った。(全2回の1回目/#2へ) ※敬称略。校名や肩書きなどは当時。読みやすさ重視のため、引用文の漢数字は算用数字に直す
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昭和の頃、なぜ丸刈りが“高校生らしい”と称賛を浴びたのか。そこには日本人の特性と大きな結び付きがある。
戦後まもなくの高校「抵抗する者はバリカンで」
戦後の高校球児は丸刈りばかりだったが、稀に長髪も存在した。1949(昭和24)年夏、湘南(神奈川)はマネージャー含む3人が長髪で甲子園に出場しようとした。佐々木久男監督が散髪を指示するも、3人は「野球と髪の長さは関係ありません」と断固拒否。部長の市瀬正毅が「他のチームで伸ばしている者がいたら切らなくてもいい」と妥協案を示すと、開会式で慶応(東京)の選手が長髪だったため、3人は髪を切らずに済んだという(※1)。
湘南は甲子園を制したが、球児の間で長髪は流行らなかった。太平洋戦争末期から理容業務品不足や電力消費規制などもあり、理容業界が壊滅的な状態になっていたため、終戦前後は自ら頭髪を処理する国民が多数を占めた。その際、バリカンでの丸刈りが最も手軽だった。また、発疹チフスの原因となるノミやしらみを除去するためにも、坊主頭は有効だった。
しかし、もっと大きな理由がある。大阪府の私立高校の校長が、昭和20年代の出来事をのちに告白している。野球部のみならず高校生の髪型についての言及だ。
〈昭和27年ですか、当時の校長が校風一新のため短髪令を出したんです。戦後の、民主主義とは自由だ、なんでも許されるという風潮でしたから、ごうごうたる反対でね、時代に逆行すると一般からもたたかれましたが、100パーセント徹底しましたね。抵抗する者はバリカンで刈りました〉(78年10月14日/読売新聞)