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「抵抗する者はバリカンで」「長髪要求で高校生が窓ガラスを…」なぜ高校野球は取り残されたのか? 50年前、“ある24歳監督”が訴えていた 

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岡野誠

岡野誠Makoto Okano

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photograph byKeiji Ishikawa

posted2023/08/29 11:02

「抵抗する者はバリカンで」「長髪要求で高校生が窓ガラスを…」なぜ高校野球は取り残されたのか? 50年前、“ある24歳監督”が訴えていた<Number Web> photograph by Keiji Ishikawa

なぜ、“坊主・非坊主論議”は遅れたのか。戦後の高校野球と髪型の歴史を追った(写真はイメージ)

1960年代の変化「高校生の長髪要求」

 当時は校則で丸刈りと決めていた高校も多く、強制的に坊主にさせられる事例まであったのだ。そんな「学生=丸刈り」の慣習は徐々に崩れていく。64(昭和39)年12月、大阪府の私立高校で生徒約1000人が校庭に座り込んで、「長髪を認めろ」と抗議。エスカレートした彼らは石を投げて校舎の窓ガラスを割り、約100人の警官が出動する事態になった。

 高校生の長髪要求は全国的な流れになる。学年誌(学年別学習雑誌)では丸刈り校則についての特集が組まれていた。

〈規則と反抗 長髪禁止をめぐって〉(65年3月号/高一時代)
〈ユーモア論争 長髪か丸刈りか〉(65年6月号/高一時代)
〈生活特集 どうして長髪がいけないの〉(67年6月号/高二時代)※いずれもタイトル

 学校側も丸刈りの合理性を説明できず、疑問視する教員もいたため、校則の変更は増えていった。67(昭和42)年発行の『にっぽん「丸坊主」白書』(柳屋本店/協力・電通PRセンター)は無作為抽出で全国の公立・私立高校200校にアンケート用紙を配布。校長91校、生徒会長73校の回答を得ている。「長髪の許可状況」の結果は以下になる。

1 時期によって認めている 32.0%
2 全面的に認めている 28.8%
3 全く認めていない 22.4%
4 条件つきで認めている 16.8%

 一見、容認60%以上に思えるが、実質30%強だった。「時期によって認めている」のうち「3年2学期で」が35%、「3年3学期で」が52.5%で、計87.5%に上ったからだ。高校生の長髪は、就職や進学直前にようやく認められていた。それでも、終戦直後の状況を考えれば、大きな進歩だった。

取り残された野球部…ある24歳監督の出現

 社会的には高校生の非坊主化が始まっていたが、甲子園球児は一律に丸刈りだった。沖縄返還の72(昭和47)年夏、その慣習を打ち破る24歳の青年監督が現れる。中西太や近藤昭仁の出身校・高松一高(香川)の久保陽二監督は前年に就任した際、野球部の髪型自由化を打ち出した。こんなコメントが残っている。

〈なにもかもいかんと、若者をスポーツの名を借りて、しめつけるのはよくないことだ。みんながのびのびとプレーしてくれればそれでいい〉(72年9月12日号/セブンティーン)

〈野球は髪の長さでやるものではない。もし野球を坊主頭でやるもんだという固定観念をいだいている人がいたなら、その人は古いんですよ〉(72年8月28日号/週刊ベースボール)

【次ページ】 “保守vs革新”がうたわれた1972年夏

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