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「抵抗する者はバリカンで」「長髪要求で高校生が窓ガラスを…」なぜ高校野球は取り残されたのか? 50年前、“ある24歳監督”が訴えていた 

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岡野誠

岡野誠Makoto Okano

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photograph byKeiji Ishikawa

posted2023/08/29 11:02

「抵抗する者はバリカンで」「長髪要求で高校生が窓ガラスを…」なぜ高校野球は取り残されたのか? 50年前、“ある24歳監督”が訴えていた<Number Web> photograph by Keiji Ishikawa

なぜ、“坊主・非坊主論議”は遅れたのか。戦後の高校野球と髪型の歴史を追った(写真はイメージ)

“保守vs革新”がうたわれた1972年夏

 選手たちは長髪ではなくスポーツ刈りだったが、丸刈りの集まる甲子園では目立った。高松一は丸子実(長野)を破って初戦突破。2回戦で強豪・広陵(広島)と対戦した。試合当日の新聞は両校の雰囲気を比較し、広陵の4番・国山一元外野手のコメントを掲載した。

〈どんな遠くでも先輩の姿がチラリとみえれば「オスッ」と大声を発し、45度以上の最敬礼。もちろん帽子をとった頭はツルツル坊主。古きよき野球部の伝統、習慣をいまもきびしく守る名門・広陵。相手の高松一が1年生も3年生も堅苦しい差別がなく、頭の毛は自由と聞いてプリプリ。「そんないい加減なチームに負けたら、広陵の名がすたる。ボクが打ちのめしてみせます」と4番の国山。「保守―革新」一騎打ちの声も〉(72年8月17日/朝日新聞)

 このコメントに発奮した高松一は、広陵を破ってベスト8に進出した。ただ、翌年以降は聖地に届かず、甲子園球児の”坊主からの脱却”は一過性に終わる。それでも、この前後から「丸刈りが嫌だから野球部に入りたくない」という意見が飛び交うようになる。昭和40年代後半から昭和50年代前半の新聞記事を列挙していこう。

地方大会で長髪増えるも…「相手チームに失礼だ」

〈今夏の都予選大会に選手が髪をのばしたチーム数校が出場、話題をまいた〉(※2)

〈部員18人のうち17人までが長髪なんです。口すっぱく“短くしろ”といっても、“遊びや男女交際のためにも髪は切れない”というんですナ〉(※3 編集部注:都田園調布の監督のコメント)

〈六本木にある都城南。「長髪を許可しないと野球部員が集まらない」とか〉(※4)

「甲子園球児=坊主」の時代は続いていくが、地方大会では長髪が現れていた。写真を見ると、都城南のサードは肩に掛かりそうなほどの長さである。逆に言えば、新聞でわざわざ取り上げられるほど、長髪が珍しい時代だった。 

 この頃から部員減少に悩むチームは丸刈り強制をやめ、その変革を人数の維持に役立てていた。それでも多数派とは言えず、髪型の主流は相変わらず丸刈りだった。昭和50年代後半、ある都立高校の監督は〈大会に出たいものは、髪を切れ。坊主頭にならないものは、絶対に出場させない〉と選手に伝えている。理由はこうだった。

〈長髪で試合に臨むなんて、相手チームに失礼だ〉(※5)

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