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巨人・落合博満41歳が猛批判「はっきり言って、原辰徳」“落合vs原”…30年前オフにバチバチの論争「原がしっかりしてたら巨人移籍なかった」
posted2024/10/29 11:01
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
KYODO
あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 当時を徹底検証する書籍「巨人軍vs.落合博満」が発売され、即重版と売れ行き好調だ。
その書籍のなかから、「原辰徳vs.落合博満」を紹介する。1994年オフ、いきなり原辰徳が落合の「年俸4億円超」に不満を漏らした。「はっきり言って、原辰徳」41歳になった落合も反撃する。【全2回の後編/前編も公開中】
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「なにィ!?」感情むき出しの原辰徳
<原辰徳は1994年12月19日の契約交渉で「僕自身は現状維持(1億1500万円)で仕方ないけど、パッと(FAで)来た人(※落合)が、自分の何倍ももらうというのはどうかと思う」と言い切った。>
この約2週間前、原は同僚の緒方耕一の結婚式で、長嶋監督が「緒方君は一番で、来年の四番は落合、広沢、新外国人に争ってもらう」とお祝いの言葉を送ると、直後に挨拶に立ち、「ボクは来季、いらないといわれているようだから」と口にしていた。1994年はアキレス腱の故障で出遅れたものの、67試合で打率・290、14本塁打、36打点と落合とほぼ同数の本塁打を放ったにもかかわらず、背番号8は構想外のような扱いを受けたのだ。
この頃から、マスコミに“優等生”や“お嬢さん野球”と揶揄され、元同僚からも「グラウンド上でお人好しすぎる」と常に甘さを指摘され続けた原が、どこか吹っ切れたような感情をむき出しにしたコメントを口にするようになる。
「一茂を代打に出されたときはどうだったかって? そりゃ悔しかったよ! 『なにィ!?』『ふざけんな』って感じだったね。そういう気持ちを持ってないと、野球選手なんてやってられないんだよ」(週刊現代1995年2月18日号)
9月7日の横浜戦で、自身に「代打長嶋一茂」を送られたときの気持ちを赤裸々に語り、自軍に優勝をもたらした「落合効果」を聞かれると、その存在感を認めつつも、元四番の意地も垣間見せる。
「落合さんが巨人に入ってきて、チームの雰囲気がガラリと変わったなんてことはなかった。落合さんなりに気を使っていたし、オレたちも落合さんを立てたしね。それで落合さんが横柄になるでもなく、うまくコミュニケーションをとれたと思うよ。確かに選手会を離脱したままFAしたことにいろいろいう人は何人もいたけどね」(同前)
年が明けた1995年1月6日、原は自宅からアキレス腱の保護と強化のためにマウンテンバイクをこいで、プロ入り時の原点とも言える多摩川グラウンドで自主トレをスタート。「常時出場すれば30ホーマーの自信はある。二塁だって守るつもりはあるんだ」と新シーズンの決意を語る36歳の若大将はもう後がなかった。
落合「はっきり言って、原辰徳」
そして、落合は正月を過ごした和歌山・太地町の「落合博満野球記念館」で、起伏の激しい記念館の周囲をひたすら歩き、痛めた下半身をウォーキングで元の状態に戻していった。