酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
「甲子園で勝ちたくて指導者になったわけではありません」日本ハム→中日→ヤクルトの35歳「元プロがアマ野球で教える意味」とは
posted2023/09/02 17:02
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph by
Kou Hiroo
東邦高校野球部の木下達生コーチは、高校時代はエースとして甲子園に出場し、ドラフト3巡目で日本ハムに入団。2年目には完封でプロ初勝利を果たしたものの、以後は故障で満足なシーズンを送ることができず、中日、ヤクルトを経て第2の人生を歩むこととなった。
引退時、木下コーチは、アメリカの大学で学んでトレーニングやケアの専門家になろうと思っていたが――。
恩師に「高校指導者の道もあるんじゃないか」と
〈外務省に行ってビザの申請をするつもりでいたときに、恩師の森田泰弘監督(現総監督)から「高校指導者の道もあるんじゃないか」と言われました。
当時の東邦高校は5年くらい夏の甲子園に行っていなかった。春のセンバツも10年ほど選ばれていなかった。僕がいた頃と比べても、監督は疲労や苦労がたまったような顔をしておられた。監督をサポートするのが自分の役目で、それは自分にしかできないなと思ったんです。アメリカに行くか学校に戻るか、丸2日間悩みましたが、森田監督を自分の親のように慕っていたので、監督を助けようと思いました。
当時は、プロ野球選手がアマチュア野球に復帰するための「資格回復制度」はありませんでした。でも来年からできるとのことで、東邦高に併設されている愛知東邦大学人間健康学科に入って学び直すことにしたんです〉
もともと学びたいとの向学心を持っていた木下コーチは、大学でむさぼるように学んだ。
〈すべての授業が楽しくて、取れる科目は全部取りました。単位も余裕でオーバーするくらいでした。3年生の後半からは授業をとらなくても良かったんですが、興味のある授業は4年間で全部受講しました。大学2年の時は「資格回復制度」ができたので、その1期生としてアマチュア指導者の資格と、教員資格も取りました。充実した大学生活でした〉
自分の高校時代の経験を“あえて伝えない”ワケ
資格回復後は、大学在学中からボランティアで東邦高校野球部の指導にも携わった。そして卒業後、東邦高校に教師として赴任。野球部コーチとして奮闘を続けている。
そんな木下コーチは、選手の指導に明確な指針を持っている。