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伝説の東大野球部が1敗で号泣した“事件”「優勝が見えたのに…」“まるでアイドル人気”東大は強かった「TBSが生中継、東大は異例休校も」 

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沼澤典史

沼澤典史Norifumi Numazawa

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posted2023/04/22 11:04

伝説の東大野球部が1敗で号泣した“事件”「優勝が見えたのに…」“まるでアイドル人気”東大は強かった「TBSが生中継、東大は異例休校も」<Number Web> photograph by Sports Nippon

1981年春季の「赤門旋風」。4月19日、早稲田大に2日連続で完封勝利した東大。帰りのバスはお祭り騒ぎに。中央はチームメートに祝福される国友充範投手

 いまとなってはそう笑って話す大久保も、当時の新聞記事では、「練習して秋にかけます」(日刊スポーツ1981年5月25日付)と悔しさをにじませていた。だが、チームとして春の雪辱を果たそうと臨んだ秋のシーズンでは、再び旋風を起こすことはできず、3勝(6位)に終わる。

「決して、練習を怠ったわけではありませんが、他大学は目の色を変えてきたのがわかりました。早稲田からは再び勝ち点を挙げましたが、それ以外は、なかなか春のようにはいきませんでしたね」(篠原)

 平野は秋シーズンの失速を、こう分析する。

「春の空気で浮かれたまま、秋に雪崩れ込んでしまった面はいなめません。落ち着いて、チーム状況をしっかり考えるべきでした。東京六大学リーグはチームの入れ替えがありませんから、春から秋にかけて、他チームからすごく研究されるんです。ということは、研究されたところよりさらに一歩も二歩も上に行かないと、次のリーグ戦では同等以上の成果を出せない。そこができていなかったかなと思います」

伝説の東大チームは「やんちゃなタイプが多かった」

 以上が、当事者の目から見た赤門旋風の始まりから終わりまでである。他大学の弱体化の時期にうまくはまった面もあったが、それでも当時の東大野球部がその歴史上類を見ない勢いと実力があったのは間違いないだろう。

「主力メンバーが個性的というかやんちゃなタイプが多かったので、それは確かに活力になったと思います。神宮での試合を多く経験していたメンバーが4年生になると、もう怖いものなし、という雰囲気がありましたから。私が1年生の頃は、たとえリードしていても『最後には追いつかれる』という意識がつきまとい、実際に逆転負けする場面も多かったのですが、年を追うごとにそうした場面が減っていったように思います」(篠原)

 1979年の秋シーズンに連敗記録を35でストップさせた後、勝利数は年々増えている。篠原が1年生のときは1勝20敗だったが、2年では3勝18敗、3年では9勝16敗だ。東大は着々と勝ち癖をつけていったということなのだろう。これまで筆者が取材した東大野球部OBたちも、篠原が言うような「リードしているときのメンタルの弱さ」を指摘しているが、当時はそれを払拭していたようだ。

 東大野球部のメンタル事情については、もうひとつ見落とされがちな観点がある。平野の指摘が興味深い。

「東大野球部の選手は、神宮で野球をやりたくて、浪人までして入部してきます。そのぶん神宮での一試合の価値がすごく重いんですよ。大事にしすぎるから、伸び伸びと動けない。高校で活躍した実績のある他大学の選手と比べると、そこは大きな違いでしょう。神宮を重く考えずあっけらかんとしたほうが、いい結果につながるはずです。1981年の4年生には、私のサインを無視してヒッティングしたり勝手なことをやるやつもいたんですが、そういう大舞台でも自由に自信を持ってプレーできる選手が出てくると、今後の東大は勝ちに近づくのではないかと思います」

最後に…「東大野球部、どうすれば強くなる?」

 そう考えると、1981年の赤門旋風時のキャプテンだった大久保が、いまの東大野球部の指導陣にいることは、大きな意味を持っているだろう。

 大久保は卒業後、社会人野球の三菱自動車川崎へと進んだ。東芝、ENEOS、日産など強豪ひしめく神奈川において、同社は若干戦力に劣ることから、「東京六大学における東大のような位置付け」だったと大久保は言う。そこでの経験も踏まえ、大久保は助監督として東大の後輩を指導している。

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