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「きたねえことすんな!」喧嘩っ早いヤンチャな東大野球部員も…あの“弱小”東大が一番強かった時代「受験でガリガリの東大生が筋肉質に…」

posted2023/04/22 11:03

 
「きたねえことすんな!」喧嘩っ早いヤンチャな東大野球部員も…あの“弱小”東大が一番強かった時代「受験でガリガリの東大生が筋肉質に…」<Number Web> photograph by Sports Nippon

1981年春季の「赤門旋風」。伝説の東大野球部チームが4月11日、“優勝候補”法政大を破った。エース大山雄司を中心に歓喜のナイン

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沼澤典史

沼澤典史Norifumi Numazawa

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Sports Nippon

 東京六大学野球の2023年の春季リーグ戦が始まった。1998年以来、50季連続で最下位に沈み、1勝を挙げるだけでも大きなニュースになるのが東大だが、弱小チームとあなどるなかれ。先日行われた春季リーグの開幕戦では勝ち点獲得こそならなかったが、2季連続優勝中の明治相手に接戦を繰り広げた。今季の東大を療養中の井手峻監督に代わって、率いているのは大久保裕助監督(現監督代行)だ。

 じつは歴史を振り返れば、東大が他大学に連戦連勝し、優勝争いに食い込んだシーズンがある。これは「赤門旋風」と呼ばれているが、そんな強い東大のキャプテンだったのが、大久保なのだ。今回は、大久保を含め、当時を知るメンバーに取材することで、勝てる東大はどのようなチームだったのかを解明していきたい。そこには時代や環境が違えど、現在につながるものが少なからずあるはずだ。【全2回の1回目/#2へ】

◆◆◆

伝説の“東大チーム”、監督は27歳大学院生だった

 東大野球部100年の歴史の中で、リーグ戦における最多勝利数は1981年春の6勝である。当時の快進撃は俗に「赤門旋風」と呼ばれている。

 赤門旋風の東大は、早稲田、慶応にそれぞれ2勝して勝ち点を奪い、法政と立教から1勝を挙げた。この快挙はスポーツ紙や全国紙でも大々的に取り上げられるほどに世間の話題になった。もはや都市伝説レベルになっている東大の快進撃の軌跡を見ていこう。

 当時、東大野球部を監督として率いたのは、平野裕一(1978年卒部・戸山、現法政大学スポーツ健康学部教授)。監督就任1年目、しかも弱冠27歳の大学院生だった。1911年(明治44年)生まれで“御大”と畏怖された島岡吉郎(明治大)は別格としても、他の4大学の監督たちは1930年代~1940年代生まれ。その中で平野は異例の若さだ。

 もっとも、平野はいきなり監督に就任したわけではない。東大野球部の現役を引退した1978年にコーチに就いている。

「前任の監督が去った後、次の指導陣の人事がなかなか決まらなかったため、大学院に進んだばかりの私がコーチを務めることになりました。私の専攻分野がスポーツ科学だったので、トレーニングの指導要員として丁度いいだろうと、白羽の矢が立ったわけです」

 平野は後にアメリカ・ユタ州ブリガムヤング大学に留学して「野球におけるハイパワーの筋力トレーニングの重要性」を学ぶなど、最先端のトレーニングを研究していた。東大野球部の強化には、うってつけの人材と言えるだろう。

「きたねえことすんな」“喧嘩っ早い”個性派も

 1979年には助監督として選手の体力強化に励みながら指導者経験を積み、満を持して1981年に監督として神宮球場のベンチに入ったというわけだ。平野がコーチ時代に1年生だった選手は、このとき4年生になっていた。平野が種を蒔いて、水をやり、芽が出て、4年目に咲いた花が赤門旋風だったのだ。

 だが、平野によれば、この4年生たちは、もともと特別な素質を持っていたわけではないという。現役時代の平野は外野手として活躍し、リーグの打撃部門ベスト5に入ったこともある。4年春のリーグ戦では慶応と立教から勝ち点を挙げて4位に輝いており、強い時代の東大野球部を経験している。そんな平野の目には、赤門旋風の主役たちはどう映っていたのか。

【次ページ】 「きたねえことすんな」“喧嘩っ早い”個性派も

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