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“森保監督の参謀”はJ2降格+補強禁止ジュビロをどう再建? 横内昭展新監督がシビれた藤田俊哉SDの熱意「僕しかいない、と」
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byAtsushi Iio
posted2023/01/10 17:16
新高3ながらトップ昇格の後藤啓介と写真に収まる横内昭展新監督、藤田俊哉SD。磐田再建へのスタートを切る
現役時代はマツダSCとサンフレッチェ広島でプレーしたが、度重なるケガの影響で28歳の若さで引退。1996年から指導者に転身し、広島のアカデミーのコーチやユースダイレクター、日本サッカー協会に派遣されて年代別代表のコーチなどを務めてきた。
広島のトップチームのコーチに就任したのが03年。以降は指揮官である小野剛、ミハイロ・ペトロヴィッチ、森保を支えた。
横内監督と藤田俊哉SDの“縁”とは
東京五輪代表の監督に就任した森保に請われ、五輪代表コーチに就任したのが、17年12月のこと。そのときは、1年9カ月の任期だと考えていた。
「協会で働くのは東京五輪が開催される20年8月(のちに1年延期)までのつもりで、その後はチャンスがあればJクラブの監督をやりたいと思っていたんです」
ところが、森保監督が18年7月にA代表の監督を兼任することになり、22年12月のカタールW杯終了時まで日本サッカー協会で仕事をすることになる。
日本代表コーチを務めたことで、当時は日本サッカー協会の欧州駐在強化部員だった藤田俊哉(現・磐田スポーツダイレクター)との仲が深まり、今回の就任に至ったわけだから、人生は分からない。
藤田SDと横内監督にとっての“共通ワード”
それにしてもなぜ、磐田再建のミッションを横内監督に託したのか――。
藤田SDの言葉に耳を傾ける。
「僕がオランダに住んでいたときに、横内さんが視察で来たんです。5~6時間、2人で(視察先まで)ドライブをする中で、サッカーの話になりますよね。そのときにボールを大事にするとか、アグレッシブとか、創造性のあるプレーとか、自分と共通のワードがあった。僕にはない強さがあるのが横内さんで、その強さに僕は惹かれた。どちらかというと僕はふわっとした言葉に流れてしまいがちで、表現が苦手。横内さんには表現する強さがある。横内さんが監督をやるなら僕は一番にオファーを出すよって、そのときは冗談ですけど、言っていました」
一方、横内監督は藤田SDからのオファーを、覚悟を持って受け止めた。
「僕しかいない、と言ってくれました。チームを変えてほしいと。もちろん、いいものは残しながら、新しく変えなきゃいけないところを私にやってほしい、と強い思いを言っていただいたので、断る理由はありませんでした。
前々から監督のチャンスがあればやりたいと思っていて、オファーをいただいたときは、こういうチャンスはないなと思いました。ジュビロ磐田は本当に歴史と伝統のあるクラブ。Jリーグも、カップ戦も、アジアも獲った。そういうクラブの監督というオファーをいただき、身が震える思いというか、やらせてもらいたいと率直に思いました」