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野村克也「お前、監督やれ。オレは楽天に行く」シダックスでノムさんの後任になった男が告白する“苦しみ”「眠れない夜が続きました」 

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加藤弘士

加藤弘士Hiroshi Kato

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photograph byKYODO

posted2022/07/22 17:02

野村克也「お前、監督やれ。オレは楽天に行く」シダックスでノムさんの後任になった男が告白する“苦しみ”「眠れない夜が続きました」<Number Web> photograph by KYODO

2002年11月~2005年11月まで3年間シダックス野球部監督を務めた野村克也。写真は2005年、後任監督となった田中善則コーチ(当時)との記者会見

「たくぎん全運動部休部 9700億円の不良債権償却 リストラの一環」

 休部はあくまで表向き。事実上の廃部だ。

 青天の霹靂だった。

 現場は何も知らされていない。一部経営陣だけで進められていた、極秘の再建策だった。

「調布駅前のつぼ八に集合だ」「パチンコ勝った奴は多めに払えよ」

 ここで動いたのが軟式から硬式に移行して3年目の新鋭・シダックスだ。実績も十分の元監督・竹内と田中、萩原をセットで獲得する荒業に出た。結論から言えば、この前代未聞の移籍は成功し、チームに変革をもたらした。田中は翌97年、主将に就任すると、たくぎんで学んだ「飲みニケーション」でチームをまとめた。温厚な萩原は投手陣の精神的支柱になった。

 田中は回想する。

「ユニホームが赤いだけで、中身は何色にも染まってない若いチーム。お互いを知るという意味で、事あるごとに飲み会をしてました。野球が上手い下手は関係ない。今日は調布駅前のつぼ八に集合だ、年長者は多く払って、若い奴は1000円でいい。パチンコで勝った奴は多めに払えよ、みたいな。野球はしっかりグラウンドでやろう。後はみんなで仲良くやろうと。当時の監督はキューバ人のウルキオラで『野球部はファミリーだ。互いにリスペクトしよう。何でも相談してくれ』というマインドだったんです。それも良かった」

 97年都市対抗8強、98年同4強。

 そして99年日本選手権優勝――。

 決勝の松下電器戦では4番・田中が2打席連続弾。萩原は先発し、勝利投手となった。

 日本一になりたい――。

 田中の思いが結実した。

野村監督の疑問「社会人はなんで30代で引退するんや?」

 だがその後の2001、02年とチームは都市対抗出場を逃し、田中も現役を引退する。

 立て直しにやってきたのは、田中がかつて著書を熟読し、憧れた野村克也だった。

 新米コーチだった田中は、野村と選手の間に立って奔走した。ミーティングでは野村の話を必死にメモし、ノートに清書しては何度も読み返した。

 野村の就任間もない頃、練習中に聞かれた。

「このバッターは打つのか?」

「ハイ。ウチの中では勝負強い打者です」

「うーん。一点だけ気になるところがあるんだよなあ」

 田中は言う。

【次ページ】 「社会人はなんで30代で引退するんや?」

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