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プロ野球PRESSBACK NUMBER
野村克也「お前、監督やれ。オレは楽天に行く」シダックスでノムさんの後任になった男が告白する“苦しみ”「眠れない夜が続きました」
text by
加藤弘士Hiroshi Kato
photograph byKYODO
posted2022/07/22 17:02
2002年11月~2005年11月まで3年間シダックス野球部監督を務めた野村克也。写真は2005年、後任監督となった田中善則コーチ(当時)との記者会見
「相当恨まれたと思います」
野村がシダックスのオーナー・志太勤(しだ・つとむ)に直談判したこともあり、廃部こそ免れたが、規模縮小は避けられなかった。31人のスタッフを26人に減らした。
「クビ切らなきゃいけなかったんで、相当恨まれたと思いますよ」
06年、野村抜きのシダックスがスタートした。3月の東京スポニチ大会では準優勝して意地を見せたが、都市対抗は予選で敗退した。そして8月終わり、志太から告げられた。
「今年いっぱいで野球部は辞めようと思う」
覚悟はしていた。「発表は9月6日以降にしましょう」と志太に伝えた。都市対抗決勝が9月5日。社会人最高峰の戦いに水を差し、紙面を奪ってはならないという配慮だった。
9月6日、関東村のグラウンドで志太はナインに解散を発表した。涙を流す者もいた。しかし監督である田中は、泣いている暇も落ち込む権利も有していなかった。
「野村さんを最後の監督にさせるわけにはいかなかった」
選手の中で引退を表明したのは25人中、2人。後は現役続行を希望していた。
田中はナインの再就職へ心血を注いだ。社会人野球の選手名鑑を熟読し、各チームの強化ポイントを把握するとともに引退選手を予想。最適な選手を売り込んだ。「見たい」と言われれば、日本全国どこへでも連れて行き、頭を下げた。
眠れない夜が続いた。ふと、たくぎん時代に仕えた指揮官のことを思い出した。
俺が辞めるって言って、休部が決まった時も、こんなつらい思いをしていたのかな――。
何とか23人全員の新天地が決まった。自身の元にも大学2校、高校2校から監督のオファーが届いた。だが断った。
「選手寮の片付けが終わらずに、途中だったんです。パネルも賞状もトロフィーの数々も置き去りのままで、自分たちの存在がどんどん消えていく……そんな気持ちを味わいましたが、片付けは止められませんでした。途中でほったらかし、次の仕事に行くことは抵抗があったんです。途中で丸投げしたら、志太さんに申し訳が立たない。僕はシダックスがあったから、輝かせてもらった。それに、野村さんを最後の監督にさせるわけにはいかなかった。チームを畳むのは、本当に大変ですから。ある意味、最後の監督が僕で良かったと思うんです」
「カラオケ店のお皿洗いでもよかった」
愛しき日々である野村シダックスの3年間。一つだけ後悔がある。あの間、選手は社業を免除されていた。野村の指導の下で野球に専念し、とにかく勝てとの方針だった。
たくぎん時代に社業にも取り組んできた田中の見解は、少しだけ違う。