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プロ野球PRESSBACK NUMBER
野村克也「お前、監督やれ。オレは楽天に行く」シダックスでノムさんの後任になった男が告白する“苦しみ”「眠れない夜が続きました」
posted2022/07/22 17:02
text by
加藤弘士Hiroshi Kato
photograph by
KYODO
当時の番記者が関係者の証言を集め、プロ野球復帰までに迫ったノンフィクション『砂まみれの名将 野村克也の1140日』(新潮社)が5刷とベストセラーになっている。
そしてシダックス時代の“教え子たち”はいまアマチュア球界の各所で、若き野球人にノムさんの教えを伝えている。『砂まみれの名将』の著者・加藤弘士氏が、昭和第一学園高・田中善則監督を取材した(全2回の2回目/前編へ)。
◆◆◆
JR立川駅からタクシーで10分。閑静な住宅街の中に、昭和第一学園のキャンパスはある。野球部の練習場はサッカー部やラグビー部などと併用で、やや手狭だ。だが日が暮れた後も、ナインは活力みなぎる表情で鍛錬に取り組む。
監督の田中善則は汗を流す選手たちを眺めながら、恩人へと思いを馳せた。
「野村監督が亡くなられた日のことは、忘れられません。一報を聞いて、ご自宅に飛んで行ったんです。心がつらい中で、対面させていただきました。プロ野球のユニホームと一緒に、シダックスのユニホームが置かれているのを見た瞬間、涙があふれて……止まりませんでした」
野村監督の“後任”に選ばれた男
シダックスに在籍した男たちは、口を揃えてこう話す。
「シダックスは上下関係が厳しくなく、雰囲気のいいチームだった。やるときはやる。それ以外は楽しく。オンオフの切り替えができる大人の集団だった」
そして、必ず続けるのだ。
「風通しのいい空気で野球が出来たのは、善さんのおかげだ」
「善さん」と呼ばれて慕われた田中は、野村の後任監督を務め、シダックス最後の指揮官にもなった。
「殿」と書いて「しんがり」と読む。戦においては最も難しい任務とされ、人間的にも戦術的にも優れた武将が担う重責だった。
なぜ田中は野村から「殿」を託されたのか。
真ん中分けはNG「お兄ちゃん、いい会社に入ったな」
田中はアマ球界のスター選手だった。1967年10月1日、東京生まれ。法政一高では2年時の84年、春夏甲子園に出場し、法政大では3度のベストナインに輝いた。卒業後は北海道拓殖銀行(拓銀、92年からチーム名を「たくぎん」に改称)に進んだ。当時の法大監督・竹内昭文は拓銀監督を務めた後、3年間の出向という形で母校を指導していたが、社業に戻るタイミングで田中を誘った。