- #1
- #2
プロ野球PRESSBACK NUMBER
野村克也「お前、監督やれ。オレは楽天に行く」シダックスでノムさんの後任になった男が告白する“苦しみ”「眠れない夜が続きました」
text by
加藤弘士Hiroshi Kato
photograph byKYODO
posted2022/07/22 17:02
2002年11月~2005年11月まで3年間シダックス野球部監督を務めた野村克也。写真は2005年、後任監督となった田中善則コーチ(当時)との記者会見
「どうだと。その時は僕、拓銀1社しか聞かされていなくて、『いいですよ』と答えたんですが、後から聞いたら14社がオファーして下さっていたらしいです。でも竹内さんに育ててもらい、使ってもらったので」
90年4月入社。バブル崩壊は翌年のことだ。都銀は活気にあふれ、野球部もまた道内で羨望の眼差しを受けていた。
「当時は北海道にプロ野球がなかったんで、マネジャーが『拓銀はジャイアンツみたいなもんなんだよ』って言ってました。拓銀のバッジを着けて歩けばツケも効く。そんな時代でした。寮からタクシーに乗ると、運転手が言うんですよ。『お兄ちゃん、いい会社に入ったな。北海道で、さん付けされる会社は、北電(北海道電力)さんと拓銀さんしかないんだよ』って」
午前中は札幌市内の支店に勤務。午後から練習が始まる。野球選手である前に銀行マンであることを求められた。躾(しつけ)は厳しかった。髪は七三分けに。真ん中分けはNG。その分、都市対抗に出場すると社内はお祭り騒ぎになった。
「入社1年目に北海道の第1代表になったんですよ。銀行中がお祝いしてくれて。祝勝会ではすすきので一晩中、3軒ハシゴして、お寿司屋さんでは『好きなだけ食っていいぞ。周りのお客さんにもご馳走してやれ』と。都市対抗に出ることは、凄いことなんだなって」
「野球部辞めます」を上回る衝撃
入社から5年が経過した。たくぎんは道内でこそ安定した強さを発揮していたが、都市対抗や日本選手権では結果を残せなかった。高校、大学と日本一を目指してきた田中は、チームの体質に疑問を抱くようになった。
「プロでは野村ヤクルトがID野球で新時代を築いているのに、こっちは『精神強化合宿』とか根性論で満足している。違う野球があることに気付いていた僕は、野村さんの本を読みまくっていました。データとか相手の癖を見抜くとか、頭を使う野球を追求し、とにかくチームで勝つ野球を体現したかった。日本一になりたかったんです」
野球部を辞めます――。
28歳の4番打者が突然の退部表明。同時に法大の後輩でもある26歳のエース左腕・萩原康も退部を申し入れた。萩原は環境の変化を望んでいた。投打の軸が一気にいなくなる。会社は慌てた。2人を強く慰留した。
95年11月15日、日刊スポーツ北海道版はこの騒動をトップ記事でスクープしている。
「たくぎん萩原引退 主砲の田中も」
だが、それを上回る衝撃の一報は9日後に届いた。