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風間八宏の衝撃、1年間の無職も味わったメキシコ生活…“銅メダル”西村亮太コーチが語る東京で流した涙とロサーノ監督との出会い
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byKaneko Takuya/JMPA
posted2021/10/06 11:01
メキシコ代表の銅メダルに貢献した西村亮太さん。持ち前のアピール力と確かな観察眼でロサーノ監督の信頼を勝ち取ってきた
首都のメキシコシティに居を定め、午前中は語学学校でスペイン語を学び、午後は聴講生として指導者養成学校に通った。
「指導者学校では、最初はまったく相手にしてもらえませんでしたね。『誰やねん?』といった感じで。スペイン語の勉強は少しして行ったんですけど、まったくわかりませんでした。それでも、どんどん中に入っていって。相手にされんでもズカズカ行って、可愛がってもらったり、馬鹿にされたり。苦労しましたけど、楽しかったですね」
1年が経ち、留学期間が終わる頃には、西村の中である気持ちが芽生えていた。
メキシコのサッカー界で勝負していく――という覚悟である。
「ほかの交換留学生はみんな帰国したんですけど、僕だけその1カ月後、ぎりぎりまでメキシコに残って、ひとりで帰国しました。日本にいたのは2週間くらい。身の回りのものだけ用意して、すぐにメキシコに戻りました」
メキシコのサッカー界で生きていくには、指導者ライセンスを取得しなければ始まらない。今度は聴講生ではなく、試験を受けて指導者養成学校に入学。メキシコリーグ1部で監督ができる「レベル4」のライセンス取得を目指して、第一歩を踏み出した。
「入学テストは誰でも受かるんです(笑)。それこそ20mのパスも正確に蹴れないような人でも合格していたので。期間は全部で2年間。レベル1から始まって半年後にレベル2、レベル3と上がっていって、なんとかレベル4を取得できました」
「こいつを雇ったら、役に立つ」
だが、ライセンス取得はスタートラインに過ぎず、西村にはコネがあるわけでもなければ、待っているだけでどこかから声が掛かるわけでもない。
そこで西村は、持ち前のガッツと行動力で、さまざまなチームに自らを売り込んでいく。
流れはこうだ。まず練習見学の許可をもらう。実際に練習を見学して、そのチームを分析する。そして、自分ならこのチームをこうして強くするというプレゼンを行うのだ。
「『こいつを雇ったら、役に立つんちゃうかな』と思わせることが大事」
懸命のアピールが実り、西村はなんとメキシコの名門クラブ、クルス・アスルのアカデミーのコーチ職を射止めた。
だが、問題があった。その職はGKコーチだったのである。
「スクールのコーチか、上のレベルでやりたいなら GKコーチしかないと。クラブの実権を握っている人から『GK経験がないのはわかっているけど、おまえの働きぶりを見ていたら絶対にできるから』と。僕としては嬉しい反面、離れすぎやろと(苦笑)。でも、チャンスだったので断る選択肢はなかったですね。プロ予備軍のGKを相手にしないといけなかったので責任重大でしたけど、やるしかないなって」
その後も持ち前の行動力とアピール力で指導者としてのキャリアを切り開いていった西村が懐かしい顔と出会うのは、サントス・ラグナU-20でコーチをしていたときのことだ。
対戦相手であるケレタロU-20の監督が、指導者養成学校の同期であるロサーノだったのだ。