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風間八宏の衝撃、1年間の無職も味わったメキシコ生活…“銅メダル”西村亮太コーチが語る東京で流した涙とロサーノ監督との出会い
posted2021/10/06 11:01
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph by
Kaneko Takuya/JMPA
2021年8月6日、夜の埼玉スタジアム――。
開催国を3-1で下し、有終の美を飾ったメキシコ代表の選手、スタッフはひとしきり喜びを爆発させたあと、ピッチ上で円陣を組んだ。
2年半にわたってチームを率いたハイメ・ロサーノ監督による最後のスピーチが始まると、キャプテンを務めたオーバーエイジのギジェルモ・オチョアはグローブをはめた手で目元を拭った。
込み上げてくる感情を抑えられなかったのは、この世界的なGKだけではない。
「東京五輪のプロジェクトに懸けて、ずっとやってきたので。1年間の無職時代を含めて、苦労だったり、チームと過ごしてきた日々だったり、メダル獲得を目指してきた努力だったり……。そうしたことすべてが走馬灯のように頭の中を駆け巡ったんです。それが最後にメダルという形となって終われたことに対する感動と、支えてくれたみんなに対する感謝の気持ちがこみ上げてきて……」
輪に加わっていたコーチの西村亮太もまた、溢れ出る涙を止めることができなかった。
2010年夏、野心を抱いてメキシコに渡り、右も左もわからぬまま突き進み、指導者としてのキャリアを切り開いてきた。
その長く苦しい日々が報われた瞬間だったのである。
それにしても、コテコテの大阪人である西村が縁もゆかりもない土地で指導者になったのは、なぜなのか――。
指導者を志したのは高校生の頃
もともとプロ選手を目指していた西村が指導者の道を進もうと考えるようになったのは、高校時代のことだった。
「その頃に『プロになるんは、現実的に難しいな』って(笑)。その前から指導者にも興味があったんです。自分のようにプロになりたいと思っている選手を助けてあげられるような指導者になりたいなって」
サッカー部の顧問の勧めによって天理大学に進み、選手を続けながら指導の勉強に励み、教職課程も受講した。指導者としての可能性を広げるためである。
だが、あるとき、ふと気づくのだ。
「教員は自分に合ってないなと(笑)。指導者として勝負したいと。そこで、高校時代に指導していただいたコーチに相談したら、筑波大の大学院を教えていただいた。それで挑戦することにしたんです」
筑波大は、サッカー界に多くの人材を輩出し続けてきた大学である。田嶋幸三、風間八宏、長谷川健太、井原正巳、中山雅史、藤田俊哉、大岩剛、望月重良、羽生直剛、藤本淳吾、谷口彰悟、三笘薫……と名前を挙げればキリがないが、その一方で、“指導者養成機関”として多くの指導者も育ててきた。
そんな筑波大の大学院に念願叶って進学した西村は、いきなり打ちのめされた。