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風間八宏の衝撃、1年間の無職も味わったメキシコ生活…“銅メダル”西村亮太コーチが語る東京で流した涙とロサーノ監督との出会い 

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飯尾篤史

飯尾篤史Atsushi Iio

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photograph byKaneko Takuya/JMPA

posted2021/10/06 11:01

風間八宏の衝撃、1年間の無職も味わったメキシコ生活…“銅メダル”西村亮太コーチが語る東京で流した涙とロサーノ監督との出会い<Number Web> photograph by Kaneko Takuya/JMPA

メキシコ代表の銅メダルに貢献した西村亮太さん。持ち前のアピール力と確かな観察眼でロサーノ監督の信頼を勝ち取ってきた

「彼は養成学校のレベル2くらいのときに編入してきて。ちょうど引退したばかりだったみたいです。実技の授業で『こいつ、やたらうまいな』と思っていたら、周りが『あいつは元プロで、代表歴もあってめっちゃ有名やぞ』と。養成学校では何度かグループワークを一緒にやったくらいで、特に交流はなかったんですけど、その後も現場で何度か顔を合わせるようになって。僕もステップアップを狙っていたので、あるとき、『ケレタロでチャンスはないか』って連絡したんです」

 西村、得意の売り込みである。

 すると、ちょうどロサーノはトップチームの監督に昇格することが内定しており、「正式に決まったらコーチになってくれ」という答えが返ってくるのだ。

 なんという幸運! 

 だが、これにはちょっとした裏話がある。

 指導者養成学校を卒業したとき、妻から「もし、どこかのチームを率いることになったら、誰をコーチにするの?」と問われたロサーノは「リョウタだ」と即答したという。ともにグループワークを行うなかで、その仕事ぶりに感銘を受けたからだった。

「いやあ、でも僕はその話、ホンマかどうか疑ってるんですけどねえ(笑)」

 西村が訝しむように、夫人とのやり取りは盛られたストーリーかもしれないが、ロサーノが西村を高く評価していたのは間違いない。

 ケレタロでの晩年、西村は「次にどこへ行くとしても、一緒に来てほしい」とロサーノから声をかけられ、次のプロジェクトを一緒に練るようになる。

 そんなふたりに大きなチャンスが巡ってくるのは、2017年限りでケレタロを離れた直後のことだ。メキシコ五輪代表監督の話がロサーノのもとに届くのだ。

正式決定まで1年「無職です(苦笑)」

 もっとも、ロサーノに決まったわけではなく、あくまでも候補のひとり。西村とふたりで練り上げた強化プランを持って、ロサーノはメキシコサッカー協会でプレゼンを行い、正式決定を待った。

 その間、なんと1年――。

 プロ選手としての実績があり、監督経験もあるロサーノには他にも仕事があったが、西村はといえば……。

「無職です(苦笑)。だから、この時期の生活は本当に苦しかったです」

 車を売り、家計を限界まで切り詰め、スクールのコーチで糊口を凌ぎ、個人分析官として現役のプロ選手をサポートすることで収入を得て、食いつないだ。

 むろん、ロサーノも西村の窮状を知っているから、「どこかから声がかかったら、俺を気にせず行ってくれ」と無理強いはしなかった。

 だが、西村は待つことにした。

「『一緒に勉強会に行こう』とか、『あのチームの練習を見に行こう』とか、彼も気にかけてくれていたし、自分も彼と一緒に仕事をしたら成長できると感じたんですよね。実際、別の監督の誘いで話を聞いたこともあったんですけど、自分の心が動くものがなくて」

 18年12月、ついにメキシコの五輪代表監督がロサーノに決まった。こうして19年1月にようやくプロジェクトがスタートしたのだった。

【次ページ】 「いずれは監督として勝負したい」

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