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<箱根駅伝> つながらなかった襷。~悲劇のランナーたちのその後を追う~
text by
小堀隆司Takashi Kohori
photograph byYuko Torisu
posted2013/01/01 08:00
監督の制止を振り切って、徳本は走り続けた。
本来ならすぐさま病院行き。だが、そこから2km余り、成田道彦監督の制止を2度、3度と振り切って、徳本は走り続けた。まるで駄々をこねる子どものように、何度も大きく首を振って。
「あの場所では止まるってことはまったく頭になくて。這ってでもたどり着かなきゃとしか考えられなかったです」
ムリもない。あの襷は徳本が1年時に新調され、その後ずっと受け継がれてきたもの。チームの汗と涙がしみ込んでいた。「ガンバレー」という沿道の声援は耳に届いたのか。
「いや、まったく。唯一、カアちゃんが『もういいからやめなさい』と叫んでいたのはわかりました。正直、他人にはどう思われても良いんです。申し訳なかったのはやっぱりチームのみんなで、いくら謝っても謝りきれない。すごい罪悪感でしたね」
容赦のない批判の嵐、ラスベガスの100万円。
チームメイトに責める者はいなかったが、厳しい声は外野から届いた。レース後、徳本のブログは一夜にして炎上した。
「だから当時はアンチ一色だった印象があります。まさに徳本祭り(笑)。あのとき僕は初めて2ちゃんねるの存在を知ったんです」
出る杭は打たれる。いつの時代もそうだ。派手な出で立ちはポリシーに基づくものだったが、心ない批判は容赦がなかった。
泣いた。荒れた。鬱にもなりかけた。4年時のアクシデントで、もう2度と箱根で雪辱を果たすことができない状況も辛かった。
抱えきれないほどの自責の念――軽くしてくれたのは家族であり、仲間だったという。
「うちの親父は面白くて、ラスベガスに連れ出してくれたんです。100万円を握らされ、これで思う存分遊べと(笑)。親父は仕事で指を2本切断して入院中だったのに、無理やり退院して飛行機に乗って。3日間飯も食わずにカジノをしてかなり吹っ切れましたね」
翌年の箱根は、後輩たちが意地を見せた。前キャプテンのスタイルを完全肯定するかのごとく、茶髪にサングラスの出で立ちで予選会を疾走。見事、本戦出場を決めたのだ。
――あの挫折から何を学びましたか。
「自分の弱さも強さも、思う存分知りました。サングラスひとつですごい批判も浴びたけど、今は箱根駅伝でも目を守るためにフツーにかけてるじゃないですか。自分がその先駆けになったという自負はありますよ」