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<箱根駅伝> つながらなかった襷。~悲劇のランナーたちのその後を追う~
text by
小堀隆司Takashi Kohori
photograph byYuko Torisu
posted2013/01/01 08:00
「あの4年間が糧になって、いま頑張れていると思う」
角が丸くなれば、人としてはつきあいやすくなる。一方で、強烈な自我や集中力は失われてしまうのかもしれない。大学卒業後はマラソンでオリンピックを目指したが、度重なるケガの影響もあって結果は残せなかった。
ふと、聞いてみる。現役時代に悔いは?
「正直、吹っ切れてない時期もありました。もっとトンがってやっていたら、結果も違っていたのではないかって」
でも、とひと呼吸置いて続けた。
「あの4年間が糧になって、いま頑張れていると思うんです。倒産した会社ではありますけど、債権者のためにもやるしかない。何かに没頭できるのって幸せなことですよ」
3年前、元陸上選手の妻とのあいだに一女をもうけた。「この娘がよく走るんです」と目を細めるパパにも、走る目標がある。
「私は清水区のチームなんですけど、『しずおか市町対抗駅伝』に出る予定で。なんとか区間賞を取りたくてね。いやぁ、夏に足を痛めるまでは調子よかったんだけど(笑)」
過ぎた歳月の豊かさを、目尻の笑いじわが物語る。泣いて、笑って、また泣いて。それでも好きなのだ、走ることが。
2002年、1月2日。花の2区で起きた「涙のリタイア」。
世紀の大ブレーキから6年後、またもエースランナーが路上に立ち尽くした。
2002年、1月2日。花の2区で起きた「涙のリタイア」を、記憶に留めている読者も多いのではないか。
襷が途絶えたのは、わずか7km過ぎ。関係者の度重なる説得に折れ、法政大の押しも押されもせぬ主軸だった徳本一善が足を止めた。
茶髪とともに彼のトレードマークだったサングラスの下で、涙はとめどなく溢れた。
あの時、何が起きていたのか。
「腓腹筋が切れたんです。一瞬、バチっていう聞いたことがない音がして。その音は今も、脳天にイメージとして残ってますね」
駿河台大のキャンパス。「新興校の箱根初出場に力を貸してくれ」と請われ、この4月に就任したばかりの駅伝部新監督は、明るい口調で未だに鮮明な記憶をたどった。
調子は悪くなかった。ただし、1週間前に痛めたアキレス腱が気がかりで、序盤はあえて抑え気味に入った。5km過ぎ、集団から抜け出そうとする選手についていこうと力を入れた瞬間、筋肉が悲鳴を上げたのだ。