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甲子園の風BACK NUMBER
日大三で甲子園優勝投手→早稲田大の「ドラ1候補」吉永健太朗30歳は人材大手の会社員になっていた! 本人に聞いた「なぜプロに進まなかった?」
text by
内田勝治Katsuharu Uchida
photograph byJIJI PRESS(L)
posted2023/12/25 06:04
甲子園優勝投手となってから現在の営業の仕事に就くまでの歩みを振り返る吉永さん(右)。本人の口から語られたのは…
1年生特有の雑務や、環境の変化もあり、体重は高校時代の81キロから、74キロまで減った。体つきが変われば、同じフォームを再現することは難しい。1年秋こそ3勝(2敗)したが、2年春は1勝(0敗)、秋は2勝(4敗)、そして3年は未勝利(0勝2敗、0勝1敗)と、成績は下降線を辿った。
プロとかそういう状況ではなく…
「プロに行くために何とかやりたいと思っていて、JR東日本に声をかけて頂いていたんですけど、ギリギリまで待ってもらって、4年春のリーグ戦が終わるまでプロを目指してやっていました」
そして迎えた4年春のリーグ戦。チームは10勝1敗1分けの勝ち点5で完全優勝を果たすも、自身は東大戦のリリーフで挙げた1勝のみ。先発した2試合も、早々にマウンドを降りた。通算11勝(10敗)のうち10勝は1、2年生で挙げた白星。吉永さんの大学野球は、尻すぼみのまま幕を閉じた。
「フォームもどんどん悪くなってしまって、プロとかそういう状況ではなく、社会人にもいけるのかっていうくらい、もう全然ダメでしたね。むしろJRに声をかけていただいて、ありがたかったです」
フォーム自体は徐々に良くなっていきました
明大・高山俊選手は阪神、慶大・横尾俊建選手は日本ハムと、日大三の同級生がプロ入りする一方で、自身はプロ志望届すら提出することなく、2016年、JR東日本へと進んだ。
一度失った輝きを取り戻すのは難しい。ましてや、投手という繊細なポジションであればなおさらだ。ただ、JR東日本には、自分を再生してくれるかもしれない投手コーチがいたことも、入社の一因となった。
「山本浩司さん(亜大-JR東日本)というコーチと凄く指導方針が合いました。リリースポイントを前にするということが僕にはあまり合わなくて、じゃあ自分が強くリリースできるところで投げるために、フォームを作っていこう、と。マンツーマンで毎日フィードバックしてもらいながら、フォーム自体は徐々に良くなっていきました」
野手転向の打診
状態が上がっても、相手は高校や大学のトップクラスが集まる社会人。自信を持って投げ込んだ球が、下位打線でも簡単に弾き返された。右肩痛もあり、思うような結果が残せず、1年目のオフ、堀井哲也監督(現慶大監督)から野手転向を打診された。