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甲子園の風BACK NUMBER
日大三で甲子園優勝投手→早稲田大の「ドラ1候補」吉永健太朗30歳は人材大手の会社員になっていた! 本人に聞いた「なぜプロに進まなかった?」
posted2023/12/25 06:04
text by
内田勝治Katsuharu Uchida
photograph by
JIJI PRESS(L)
妻や子どもとの時間を確保したかった
「個人の裁量を持って営業として頑張ってみたいというところと、もう少しスポーツに携わった仕事をしたいと思っていました。あとは妻や子どもとの時間を確保したいというのも大きかったです。パーソル自体がパ・リーグのスポンサーをしていたり、スポーツ事業との関係性が凄く強かったので、そういった理由もあって転職をしました」
転職という人生の大きな決断を後押しする会社への転職。これまで、大きな決断を繰り返してきた、吉永さんらしい天職だと言える。調布リトルシニア(東京)で活躍した中学時代、日大三(西東京)への進学を決めた理由も、至って明確だ。
甲子園に出るため打線が強力な日大三を選んだ
「自分はピッチャーだったので、どうしたら甲子園に出られるかというところを考えた時に、打線の強いところ、特に東京では日大三高が有名だったので、そこがかみ合えば甲子園にいけるんじゃないかと思って選びました」
2001年の夏に甲子園歴代最高記録(当時)のチーム打率.427と圧倒的な打力で日本一へと登り詰めた日大三。その強烈な印象が少年の脳裏に焼き付いていた。吉永さんはその名門で1年秋からベンチ入りし、2010年春のセンバツ大会で準優勝を経験。新チームとなった2年秋からエースナンバーを背負うと、最速149キロの直球と「魔球」シンカーを操り、明治神宮大会優勝、2011年センバツ4強、そして夏の甲子園で、同校を10年ぶり全国制覇へと導いた。高校日本代表として出場したアジア野球選手権では最優秀防御率(0.00)を獲得するなど、瞬く間にシンデレラストーリーの主役となった。
「何でプロにいかなかったの」という声も
プロも色めき立つ実力と戦歴を併せ持ちながらも、吉永さんは、早大への進学を決断する。本人は淡々とこう振り返る。