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甲子園の風BACK NUMBER
「鎮痛剤を飲みながら毎日投げていた」甲子園優勝投手→JR東日本で野手転向、日大三エースはひっそりと野球を辞めた…吉永健太朗が明かす「その後」の人生
posted2023/12/25 06:05
text by
内田勝治Katsuharu Uchida
photograph by
JIJI PRESS
2011年、日大三のエースとして甲子園優勝に貢献し、早稲田大学を経て、JR東日本に入社した吉永健太朗さん。違和感を抱きつつも投げ続ける中で、野手にも挑戦。2017年3月の試合でヘッドスライディングをした際に右肩の靭帯の一部を断裂してしまう。(Number Webノンフィクション全2回の第2回/前編はこちらへ)
痛くて全然投げられませんでした
2017年春。投手として致命的な右肩の大怪我を負った吉永健太朗さんは、保存療法を選択しながら回復を待ったが、状態は一向に上がってこなかった。
「痛くて全然投げられませんでした。120キロも出ないくらいだったので、このままじゃダメだと……」
怪我から半年ほど経過した9月に手術を決断。1年に及ぶ長いリハビリ期間中、野球部は休部扱いとなり、総務部で一般社員と同じくフルタイムで勤務。仕事後の夜9時からリハビリやトレーニングを開始する孤独な日々が続いた。
ロキソニンを飲まないと投げられない
1年後の2018年秋。投手として、何とか実戦で投げられるまでに回復。翌2019年も野球を続けられることになった。球速も144キロまで戻ったが、右肩の痛みは消えなかった。投げる前には鎮痛剤のロキソニン錠を必ず服用した。
「右肩は今までで一番痛かったですね。ボールを投げる時はロキソニンを飲まないと投げられませんでした。キャッチボールをしない日はないので、基本的には毎日飲みながらやっていました。大学の時と比べると、技術的にはよくなっていて、もう少しやれば140キロ台後半ぐらいまで投げられるんじゃないかという手応えはありましたけど……」
もうちょっとやりたいと思っていました
フォームの違和感、そして右肩痛と戦い続けた野球人生だった。甲子園、神宮と学生野球の聖地でスポットライトを浴び続けた男は、都市対抗で東京ドームのマウンドを踏むことなく、2019年シーズン終了後、退部を言い渡された。