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“井上尚弥をモンスターにした男”大橋秀行はどんなボクサーだったのか?「尚弥とは違い、何度も木っ端みじんにされた」“150年に1人の天才”の真実
text by
森合正範Masanori Moriai
photograph byShigeki Yamamoto
posted2023/10/09 18:05
大橋ジム会長として井上尚弥をはじめ多くの名ボクサーを輩出している大橋秀行。ロングインタビューで、その現役時代に迫った
大きな挫折。専修大に進学し、ロサンゼルス五輪を目指した。五輪予選にあたる全日本選手権で、合宿でのスパーリングではいつも優勢だった黒岩守に完敗を喫した。五輪の夢がついえた。アマチュア戦績は45戦42勝(27KO・RSC)3敗。大学を1年で中退し、プロ転向を決意する。
米倉会長に「150年に1人の天才」と言われ続け…
プロボクサー・大橋秀行の所属は「花形ジム」になる予定だった。元世界王者の花形進が地元・横浜にジムを設立し、大橋はその第1号選手になるはずだったのだ。しかし、毎朝9時にヨネクラジム会長の米倉健司から勧誘の電話がかかってくる。
「花形会長に相談したら、『お前のことを考えたらヨネクラジムに行った方がいい。名門だし、育て方もマッチメイクもいいからな』と言われたんです。米倉会長からは『何千人と練習生を見ているけど、君の目は必ず世界王者になる目だ』と言われていた。それで、米倉会長にお願いしますと連絡したんです」
米倉からは「150年に1人の天才」と名付けられた。駄馬から天才へ。大橋はそのニックネームを消化できなかった。
「だって、当時の150年前といったら江戸時代ですよ。江戸時代にボクシングなんてまだねえよ、調子いいな、という感じでしたね」
それでも米倉は毎朝言ってくる。「お前は150年に1人の天才だから」と。
「あれは洗脳ですよ。ずっと言われ続けると脳が反応して、あれっ、俺は本当に他人と違うのかもしれない、と思ってくるんです」
だが、少しでもその気になるとジムのトレーナー、松本清司に「お前が天才なわけねえだろ」と叱責される。ジム内では米倉が「飴」を与え、松本は「鞭」で引き締める役割だった。
「ここ一番」でいつも負けるボクサー
1985年2月12日、プロデビュー。1回KOで飾った。3戦目は世界挑戦の経験もある元日本王者の倉持正を初回KOで仕留める。大橋のパンチ力は図抜けていた。「天才」「大器」として周囲の期待も大きい。4戦4勝(3KO)となり、陣営は具志堅のプロ9戦目を超える日本最短での世界王座獲得(当時)を狙っていた。
大橋のターゲットはWBC世界ライトフライ級王者の張正九(チャン・ジョング)。その前哨戦として「仮想・張正九」の金奉準(キム・ボンジュン)戦がマッチメイクされた。