松岡修造のパラリンピック一直線!BACK NUMBER
修造が訊く!パラ・パワーリフター
大堂秀樹が競技を始めた意外な理由。
posted2019/03/05 17:00
text by
松岡修造Shuzo Matsuoka
photograph by
Yuki Suenaga
松岡修造が、パラアスリートと真剣に向き合い、その人生を深く掘り下げていく『松岡修造のパラリンピック一直線!』。パラ・パワーリフティングでパラリンピックに3大会連続出場し、日本を代表するパワーリフターの一人である大堂秀樹さん。現在は東京パラリンピックを目指す傍ら、後進にも積極的にアドバイスを送ったりと、忙しい日々を送っている。
彼が、バイク事故に遭って車椅子生活になったのは、18歳のとき。バイク事故に遭うまでは、ジャッキー・チェンに憧れ、日本拳法や筋トレに取り組む、どこにでもいる健康的な少年だった……。
「急ブレーキをかけても、もう間に合わない」
松岡「ジャッキー・チェンが好きで、筋トレをしながらバイト三昧の高校生時代を経て、大堂さんはバイク事故に遭ってしまうわけですが……」
大堂「そうです。普通に運転していたら、トラックとぶつかっちゃって、背中がポキっとなってしまって……。トラックは2トンか4トンか、それくらいの大きさでしたね。後ろに荷台がついているタイプです。
3車線の道路の追い越し車線を僕が走っていて、大きな橋を越えた少し先で、右に曲がろうと思っていたんです。ところが、橋を過ぎてすぐのところに中央分離帯が切れているところがあって、そこは本来一般車両は進入禁止で、消防署に緊急車両が入るための場所ですけど、道路脇のガソリンスタンドから出てきたそのトラックがそこを使って反対車線に行こうとしていたんです。で、その反対車線が混んでいたから、僕の車線をふさいで止まっていた。そこにドーンと」
松岡「聞いていると、すごく怖いです。本来ならいるはずのないトラックがそこにいた」
大堂「橋を下る途中に気づいたんですが、橋を上っている時はぜんぜん見えていなかったんです。前方にトラックを見つけて急ブレーキをかけても、もう間に合わない。そんな状況でした」
大堂秀樹(おおどう・ひでき)
1974年10月17日愛知県名古屋市生まれ。18歳の時にバイク事故で脊髄を損傷し、車椅子生活に。3年後にパワーリフティングを競技としてはじめ、2008年北京(75kg級8位)、2012年ロンドン(82.5kg級6位)、2016年リオ(88kg級8位)と3大会連続でパラリンピックで入賞。2018年9月に北九州市で開催されたアジア・オセアニアオープン選手権(88kg級)で同大会日本人唯一の銅メダルを獲得。SMBC日興証券所属。