松岡修造のパラリンピック一直線!BACK NUMBER
修造が訊く!パラ・パワーリフター
大堂秀樹が競技を始めた意外な理由。
text by
松岡修造Shuzo Matsuoka
photograph byYuki Suenaga
posted2019/03/05 17:00
パラ・パワーリフター大堂秀樹の強靭な肉体は、強靭な精神からもたらされたものである。
日本人女性としての初の世界チャンピオン。
松岡「初めてバーベルを上げたときの感覚は覚えてますか」
大堂「いやもう、爽快でした。それに、そのトレーニングしている場所は、誰もが選手としてストイックにやっているわけではなくて、インターバルの間にはタバコも吸いにいくし、ただ好きで筋トレをしている人たちの集まりでした。だから敷居が低くてなじみやすかった。町の力自慢が集まってただ力比べをしている、という雰囲気が自分には良かったですね」
松岡「じゃあ、その頃はまだパラリンピックという目標はなかったのかな」
大堂「はい。パラのパの字も知らなかったです。実際、高橋さんが出ていたのも健常者の世界大会で、その頃のことは、寿子さんの方が詳しくご存知ですよ」
対談の様子を見守っていた吉田寿子さん(日本パラ・パワーリフティング連盟事務局長)がスッと会話に加わった。じつはこの吉田さん、1988年にパワーリフティングの世界大会で優勝し、日本人女性として初めて世界チャンピオンになったこともある、すごい経歴の持ち主。大堂さんのことも昔からよく知っている、パワーリフティング界のレジェンドだ。
吉田「当時は世界大会に障害者部門と健常者部門の2つがあったんです。でも1998年ごろ、突然『歩いてベンチ台までいけなければ大会に出場できない』とルールが変更されて、高橋さんは、自分が出場する大会がなくなってしまい、行き場を失ったんです。そこで、別の道をいろいろ探してみたら、パラリンピックにパワーリフティングが入っていることがわかった。また道が開けたんです」
松岡「秀樹さんについては、最初にどんな印象を持ちましたか」
吉田「筋トレの好きなお坊ちゃんだなって」
松岡「お坊ちゃん(笑)。どの辺りが?」
吉田「当時は仕事もしてなかったよね。(そう言われて、大きく頷く大堂さん)なんというか、悠々自適にトレーニングをしている、そんなイメージです」
大堂「まだ障害者雇用も少なくて、職安には登録していたんだけど、なかなか職場が見つからなかった。それでフラフラしながら、でもトレーニングだけはしっかりしてました」
松岡「寿子さん、世界チャンピオンにもなられているすごい方なんですね」
吉田「36~7歳のころです。この競技は積み重ねが大事なので、30代後半から40代前半くらいの年齢が一番強い。大堂くんが今、ちょうどそれくらいだよね」
大堂「44です」
松岡「その年齢でもまだ伸びている実感があるんですか」
大堂「ありますよ。去年からジョン・エイモスさんの指導を受けているんだけど、それが自分にすごくはまって。寿子さん、ジョンさんのことはどう説明したら良いですか」
吉田「ジョンさんはイギリス人のコーチで、IPC(国際パラリンピック委員会)の世界最優秀コーチ賞を受賞したことのある方です。今は世界中でコーチングセミナーを開いているのですが、一昨年から何度か日本に来て指導をしてもらってます。
イギリスは弱かったんですけど、ロンドンパラに向けてすごく強化をして、彼の手腕でメダルを獲らせていた。思い切ってコーチを打診してみたら、快くオッケーと。去年は年4回くらい、代表合宿に招いてます」