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格闘技PRESSBACK NUMBER
人気女優と結婚、伝説の組長と交流も…“昭和プロレスの語り部”マイティ井上が急逝 生前語った「国際プロは猪木の踏み台」「燃える闘魂はパクリ」の真意
text by
欠端大林Hiroki Kakehata
photograph byAFLO
posted2024/12/04 11:15
国際プロレスや全日本プロレスで活躍し、引退後はレフェリーとしてノアにも関わったマイティ井上さん。生前語っていた新日と猪木への複雑な思いは…?
ストロング小林が新日本に移籍した一件の背景には、待遇面のほか、国際プロレスの同僚だったグレート草津との確執があったとされる。プロがよりよい条件を求めて動くことは決して否定されるものではないが、義理人情を重んじる昔気質の井上さんは、結果として団体衰退に至る引き金となったストロング小林の電撃移籍を最後まで容認しなかった。
「アントニオ猪木が“燃える闘魂”というキャッチフレーズを使うようになったのは、新日本ができた後の1974年ごろ。でも“闘魂”という言葉はそのずっと前から国際プロの吉原功社長が使っていた。もともとは、吉原社長にとって早大レスリング部の先輩にあたる八田一朗さんが使っていた言葉なんです。つまり新日本にパクられたということですよ」
アンドレ・ザ・ジャイアントも国際プロ→新日へ
井上さんが挙げた「新日本の国際喰い」の実例は、これにとどまらない。
吉原社長によって発掘され、1970年に初来日を果たした無名時代のアンドレ・ザ・ジャイアント(当時のリングネームはモンスター・ロシモフ)も、人気が出たところで新日本に横取りされた。
団体末期の1981年にはラグビー出身のホープ阿修羅・原が必殺技「雪崩式ブレーンバスター」をひっさげ凱旋帰国したが、この技の存在を新聞記事で知った新日本の木村健悟が、阿修羅・原本人より先に新日本プロレスのリング(藤波辰巳戦)で「国内初披露」するというえげつない行動に出る。
結局、この掟破りもあって原の「雪崩式ブレーンバスター」はインパクトが削がれる格好となってしまった。
1981年に国際プロレスが崩壊した後、ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇の3選手が新日本に殴り込み。「はぐれ国際軍団」として猪木潰しに名乗りをあげたが、マッチメーク面では猪木1人と国際軍団の3人が闘う「1対3変則マッチ」など、屈辱的ともいえる扱いを受け、軍団は2年で自然消滅した。