「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
「負け犬根性が蔓延…これじゃ巨人に勝てるはずがない」広岡達朗は“弱小ヤクルト”をどう変えた? 92歳の告白「私が若松勉を叱責したワケ」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph bySankei Shimbun
posted2024/07/13 11:04
王貞治、若松勉と歓談する広岡達朗(1998年)。ヤクルト監督時代、王を中心とした古巣・巨人こそが広岡にとっての“仮想敵”だった
「ようやく若松もひと皮むけるぞ」
「このとき、若松の表情が変わったのがよくわかった。悔しかったんでしょう。腹が立ったんでしょう。でも、それこそ、私が若松に望んでいたものでした。若松には負けじ魂が強烈に眠っている。でも、決してそれを表に出すことはしない。穏やかな人柄だから。でも、プロの世界ではもっと気迫を前面に出す必要がある。若松に足りないものは、それに尽きた。私は、“ようやく若松もひと皮むけるぞ”と感じたものでした」
ヤクルトに入ってすぐに「若松が中心となるべきだ」と感じた。そして、監督になったときには「若松に賭けよう」と決めた。人格的にも申し分なく、実力もある。誰からも慕われている若松が中心として存在していれば、自然とチームはまとまるはずだ。しかし、人前に出ることが苦手で奥ゆかしい性格の若松を見ていると、広岡は歯がゆさを感じていた。
「もっと前に出ろ、もっとチームを引っ張ってくれ!」
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そんな思いを抱いていたときに「缶ビール事件」が起こった。いや、「起こった」のではない。あえて「起こした」のだ。そのタイミングを見計らっていたのである。
「いやいや、“見計らっていた”ということはないよ(笑)。ただ、“どこかのタイミングでハッキリと言わなければいけない”とは思っていた。それがたまたまこのときだったということでしょう。えっ、若松もこのときのことをよく覚えているって? そうですか、彼にとってもよっぽど悔しかったでしょうからね」
受話器の向こうで、広岡は嬉しそうに笑っている。そして、その狙いは見事に的中した。前述した表現を借りれば「賭け」に勝ったのである。ようやく、若松に真の覚醒の時期が訪れたのだ――。
<続く>