「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
容赦ない巨人批判、愛弟子もボロクソに…広岡達朗92歳はなぜ“冷徹な指揮官”を貫いたのか?「ほう、若松がそんなことを…」恐れられた名将の素顔
posted2024/07/13 11:05
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
JIJI PRESS
「ジャイアンツコンプレックス払拭」の実現
1977(昭和52)年、「缶ビール事件」後、若松勉は覚醒する。それは広岡達朗が望んでいた姿だった。この年、チームは創設初となる2位に躍進し、若松もまた自身2度目となる首位打者を獲得。翌年のリーグ制覇、初の日本一に向けて、着実にステップアップしていた。この頃のチームの雰囲気について、若松は本連載において、こう述べている。
「広岡さんは“ヤクルトには負け犬根性が染みついている”と言っていました。実際に負けっぱなしでしたから、それは事実だったと思います。だから、選手たちの意識を変えることを強く考えていた。そして実際に、選手たちの意識も変わっていったように思います」
就任以来「ジャイアンツコンプレックスの払拭」を大命題としていた広岡はどのような手応えを覚えていたのか? およそ半世紀前の心境を本人が振り返る。
「手応え? 確かに感じていましたよ。それまで、ジャイアンツに対しては、戦う前から“勝てるわけがない”という思いで臨んでいるように、私には見えました。けれども、私も、そして森(昌彦/現・祇晶)も、口を酸っぱくして“ジャイアンツなど恐るるに足りず”と言い続けたことが功を奏したのでしょう。特に森は口が悪いから、監督の長嶋(茂雄)に対して、“あんな野球で勝てるはずがない”と言ったり、王(貞治)のことも、“もう、全盛時の迫力はない”と徹底的に批判したりしていましたから(笑)」
チーム初の優勝に向けて、最大のライバルとなるのは読売ジャイアンツだった。広岡にとって、自身の古巣であると同時に、川上哲治監督とたもとを分かって以来、愛憎相半ばするチームであった。現在92歳になった広岡に話を聞いていると、どんな話題であっても、気がつけば次第にジャイアンツの話になっていることが多い。