「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
「負け犬根性が蔓延…これじゃ巨人に勝てるはずがない」広岡達朗は“弱小ヤクルト”をどう変えた? 92歳の告白「私が若松勉を叱責したワケ」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph bySankei Shimbun
posted2024/07/13 11:04
王貞治、若松勉と歓談する広岡達朗(1998年)。ヤクルト監督時代、王を中心とした古巣・巨人こそが広岡にとっての“仮想敵”だった
それでも、何度も何度も「1978年の広岡達朗」について尋ね続けていると、ヤクルト監督時代に彼が腐心したこと、取り組んだことが少しずつ披瀝されていく。それは、既出のエピソードももちろん多かったけれど、初めて聞くエピソードもたくさんあった。この時代の思い出話で、真っ先に登場するのが「ミスタースワローズ」こと若松勉である。広岡にとって、「ヤクルト監督時代=若松勉」、そんな印象が根強いのだとすぐに理解できた。
「若松が変われば、ヤクルトは優勝できる」
「若松ですよ、ヤクルトが日本一になることができたのは。逆に言えば、若松が変わらなければヤクルトは優勝できなかった。私が監督となったとき、真っ先に考えたことは、そういうこと。“いかに、若松に自覚を持たせるか?”、まずはそのことを強く意識しました」
1974(昭和49)年、広岡は守備コーチとしてヤクルト入りを果たしている。球団からは「監督就任」の依頼だったというが、「早稲田大学の先輩である荒川(博)さんを差し置いて、自分が監督になるわけにはいかない」と固辞したという。
「ヤクルトに入ってまず驚いたのは、チームとして勝つ気がないこと。まったく優勝をめざしている雰囲気がなかった。夏が終わる頃になると、ベテラン連中はシーズンオフのゴルフのことばかり考えるようになる。万年Bクラスでチーム内に負け犬根性が蔓延している。“あぁ、これじゃあジャイアンツに勝てるはずがないよ”、まずはそう感じたね。何から手をつければいいのかわからない。それが、ヤクルトに入って最初に感じたこと」
所属選手を仔細に観察していると、黙々と練習している若松の姿が目に入った。47年生まれの若松はこのとき27歳、プロ4年目を迎えていた。2年目には早くも首位打者を獲得し、すでにチームの中心的存在にあった。日本一達成直後の79年に発売された自著『私の海軍式野球』(サンケイドラマブックス)には、「若松に賭けた」という一節がある。
《いちばん先に“やる気”を見せてくれたのは若松である。野球に取り組む姿勢もいいし、ものの考え方もしっかりしている。技術はいうまでもない》
この点を改めて、広岡に尋ねる。返ってきたのは、半世紀近く前とまったく変わらぬ感想だった。