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「大谷翔平は知らない。でも渡辺は超有名でした」東北No.1だった天才14歳…今明かす“高校で伸びない”絶望「中3大谷と仙台育英の監督室で会った」
text by
中村計Kei Nakamura
photograph byJIJI PRESS
posted2024/07/07 11:01
大谷翔平と同年で、「東北の天才」といわれていた渡辺郁也(仙台育英時代)
「大谷はユニフォーム姿だったような気がするんですよね。だから、練習に参加してたのかな。お父さんも一緒でした。パッと見かけただけなんで、話まではしてないです。(仙台育英に)来るっぽいよ、みたいな話にはなっていました」
なぜ大谷は仙台育英に進まなかったのか
実は私も水沢パイレーツ時代の恩師、浅利昭治に大谷は仙台育英に行くつもりだったという話を聞いたことがある。ところが、大谷が中学3年生に進級する年、2009年に地元岩手の花巻東が甲子園で旋風を巻き起こした。春は準優勝、夏は4強入りを果たす。その中心にいたのは怪物左腕、菊池雄星(ブルージェイズ)だった。その活躍に触発され、進路を変更したのだという。
当時、渡辺の名は宮城どころか東北全域に響き渡っていたようだ。その年の仙台育英は渡辺の存在が吸引力となり、楽天ジュニアで一緒だったメンバーが他に4名も入部するなど有力な新入生たちが集まった。のちに仙台育英の主将を務める小杉勇太(現・学法石川コーチ)が話す。
「中学の時、大谷の名前は聞いたことがなかった。でも渡辺は超有名でした。仙台育英を選んだのは、その渡辺がいたことも大きかったです」
3年生が抜けた2011年秋、渡辺は下級生ながら主力となることを期待された。ところが、ここで大きく躓くことになる。
渡辺は高校に入ってから伸びなかったのだ。身長も、球速も。
天才の挫折「投げるのが怖い」
中学では172センチまで伸びたが、高校に入ってからはピタリと止まった。高校1年夏、甲子園に出場したときの週刊朝日の増刊号『甲子園』のページを繰ると、チームごとにベンチ入りメンバーの名前が掲載されている。渡辺の名前の右横にあった身長の欄は「175」と印刷されていたが、「サバ読んでましたね」と告白する。
「コーチが172だとバカにされるから75って書いとけって。盛り気味に書いてます。全員、2、3センチ盛ってると思いますよ」
球速も平行線をたどった。中学時代の圧倒的な優位性は影を潜め、投げるたびに打たれるようになった。
「中学校のときのままの感覚で投げていたら高校ではぜんぜん通用しなかった。それまでは打たれたこと、ほぼないぐらいの感じだったのに。たぶん(球速が)135ぐらいだと、高校ではちょうどぐらいなので。球速はそのあたりが限界値だったのかなと思います。もう投げるのが怖いというか、嫌だという感覚になっていました」
そこから渡辺は長いトンネルに入る。スピードを追い求めることを断念し、変化球とコントロールで勝負できるスタイルにモデルチェンジをはかった。ところが却ってフォームを崩し、制球力はさらに乱れた。
渡辺が大谷を体感したのは、そんなときでもあった。
〈つづく〉