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「誰かにとっての憧れの存在になりたい!」ブラインドサッカー®川村怜の人生の目的。
posted2024/10/29 17:00
text by
ミムラユウスケYusuke Mimura
日の丸を背負ってたどり着いたブラインドサッカー男子日本代表の川村怜は、試合の合間に会場の空気をハッキリと感じていた。
「あぁ、このエリアは子どものお客さんがすごく多いんだな」
「ニッポンコールが起きている!」
ブラインドサッカーの試合では、ゴールキーパーをのぞく全ての選手がアイマスクをつけて戦う。光を感じる選手から、全く見えない状態の選手に至るまで、様々な状態の選手が同じ条件で試合をするためだ。彼らは耳からの情報を頼りにボールを蹴り、ゴールを目指す。極限まで耳の感覚を研ぎ澄ましているから、音が空にむけて抜けていく様子も感じられた。もちろん、試合会場につめかけた観客の息づかいも。
川村は嬉しそうに振り返る。
「海外では日本のアニメが人気だからか、たくさんの人が日本チームを応援してくれました。学校単位で応援に来てくれている子どもたちもいたようです。そうやって見に来ることは、教科書を読む以上に、教育としても良い影響があるのかなと感じました」
多くのアスリートと同じように、川村もまた日の丸を背負って戦う楽しさや誇り、そして、観客から応援される喜びをかみしめながらプレーを続けている。
ただ、彼がこの舞台に立つまでの道のりは、決して順風満帆ではなかった――。
大好きなサッカーとの別れ
川村が小学生のとき、サッカー男子日本代表が世界一を決める大会の出場権を初めて手にした。
「日本が初めて出場して、中山雅史選手がゴールを決めた姿はよく覚えています。選手たちがゴールを決め、喜んでいる姿がとてもかっこよかったので。当時のJリーガーや日本代表の選手には『憧れ』を抱いていました」
小学校5年生の頃には、人生の目的をこう考えていた。
「将来は日本代表に選ばれ、世界で活躍したい」
ところが、川村の想いが膨らむのと反比例するかのように、視力が低下していってしまった。それでもしばらくは、ハンデにもめげず、大好きなサッカーを続けていた。ただ、2001年、中学にあがるタイミングで競技を続けることを一度、断念せざるを得なかった。サッカーボールやゴールを十分に見ることができないままサッカーを続けるのは不可能だと考えたからだ。そこからは陸上競技を始め、大好きなサッカーに別れを告げた……はずだった。
転機は2007年、筑波技術大学に進学してから訪れた。
ブラインドサッカーの存在を知ったのだ。