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大谷翔平が発言「彼にはかなわない、負けたと思いました」青森にいた“怪物中学生”…なぜプロ野球を諦めたのか? 本人語る「大谷と初めて話した日」
posted2024/06/29 11:00
text by
中村計Kei Nakamura
photograph by
Getty Images
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白いユニフォームにオレンジ色の「55」が映える。その日、お目当ての選手は女川の町民野球場にいた。
仙台駅から仙石線、石巻線と乗り継ぎ、約1時間半で女川駅に到着した。球場はそこから車で約5分のところにあった。
女川は2011年の東日本大震災のとき、もっとも被害の大きかった海沿いの街である。街全体が新しく感じられるのは震災時、あらゆるものが津波の被害に遭い、のちに修復および再建されたからだ。
背番号「55」と言えば、ひと昔前までは巨人、ヤンキースで活躍したスラッガー松井秀喜の象徴だった。だが、令和の世の中においてはヤクルトの村上宗隆だろう。左打席に立つオレンジ色の55番も、さほど上背はないものの、いかつい風貌、筋骨隆々とした体型、そして力感のあるフォームはどことなく村上を想起させた。
その選手こそ17年前、あの大谷翔平にかなわないと思わせたという大坂智哉だった。
諦めか、嫉妬か…同学年に大谷翔平がいること
大谷の同学年に話を聞きたいと思った理由。それは大谷のような偉大過ぎるスターが同じ年齢にいるとはどういうものなのかを聞きたかったからだ。
目標になる程度ならまだ励みになるかもしれないが、大谷の偉大さはどう考えてもそんなにかわいいものではない。野球選手にとっては希望どころか、絶望でしかないのではないか。
私は、大谷とほんの一瞬でもすれ違ったことのある同学年プレイヤーたちに何よりも「大谷を見ていて絶望したことはないのか」と聞きたかった。
勘弁してくれ――。
諦観のような、嫉妬のような、そんな遣り切れない、焼け付くような気持ちを抱えているのではないかと想像したのだ。
大谷に「かなわない」と言わしめた男
取材を始めようと資料を渉猟する中で見つけたのが大坂の名前だった。大谷は中学1年の夏、大坂を見て上には上がいることを思い知ったのだという。
2017年夏に発行された『Number』誌933号の中で、大谷はこう言っていた。