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「コールドにしてください…」甲子園で日大名門校を次々撃破、おかやま山陽監督が“ボロ負け”で2度涙した夏「あの頃は常に悩んでいた」
posted2023/08/17 06:01
text by
堤尚彦Naohiko Tsutsumi
photograph by
JIJI PRESS
そのチームを率いるのが、堤尚彦監督だ。監督就任当初、2007年からの歩みを著書『アフリカから世界へ、そして甲子園へ 規格外の高校野球監督が目指す、世界普及への歩み』(東京ニュース通信社、2023年7月発行 講談社発売)から抜粋して紹介する(全4回の2回目/前回は#1へ、続きは#3へ)
バレーボール部も勧誘
前監督が勧誘した選手が完全にいなくなった状態の新チームは、散々な船出だった。
前年を下回る2回戦敗退で07年夏を終え、私と斎藤(貴志、コーチ)の赴任と同じタイミングで入学した植松正伍らのチームが始動した。当初3人いた2年生は1人が退部し、わずか2人。前年に初めてスカウティングに着手した1年生も、約70人に声をかけてみたが振られっぱなし。
とにかく人数が必要だったので、どこからも声がかからないような実力の選手だけでなく、校内のソフトボール大会で動きの良かった生徒、中学のバレーボール部で腕の動きがしなやかだった生徒にまでも声をかけたというチーム力だった。
2人以外全員が寝坊
そして、練習試合、公式戦の両方で、大きな転機となる敗戦を経験することになる。
新チームの発足間もない8月に東海地方への遠征を実施した。まず愛知に向かい、愛知の超名門・中京大中京と、東北福祉大時代の同期である青栁博文が2002年の創部直後から監督を務める群馬の健大高崎とのダブルヘッダーに臨んだ。
遠征中、健大高崎と同じ宿舎に泊まっていたのだが、まだ全国的に無名だったにもかかわらず、全選手がビシッと朝食会場にそろっている健大高崎に対し、おかやま山陽は10数名いる選手のうち、わずか2人しか席に着いていない。他は寝坊だ。
2-19に「すみません、コールドにしてください」
私が運転するマイクロバスで中京大中京のグラウンドに向かう道中でひたすら説教、グラウンドでは甲子園最多優勝の記念碑の前をスライディングパンツ一丁でうろつく選手がおりまた説教、試合は覇気なく大敗し、宿舎に戻ってからも言わずもがなの説教だった。