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「トミヤスは必ず大物になるぞ」「ホンダはサムライ」闘将ミハイロビッチ53歳で死去…“何度殴り合ったかな”反骨伝説の源とは
text by
弓削高志Takashi Yuge
photograph byLaPresse/AFLO
posted2022/12/19 17:12
ボローニャ時代、冨安健洋をハグするミハイロビッチ。鮮やかなFKアーティストであり、熱血度満点の闘将だった
当時、港町のクラブにはFW森本貴幸(現台中フトゥーロ)がいて、残留争いの難局に招聘されたミハイロビッチは鬼の形相でチームを戦う集団へと改造した。会見はつねにピリピリした緊張感にあふれ、指揮官がベンチから発する闘気だけで生半可な下位チームは震え上がった。
生まれ変わったカターニャは悠々残留を決めたが、指揮官の眼光は暗く、冷たかった。
今なら、当時不惑を迎えたばかりの彼が、セリエAで外国人指導者として生き残っていけるか、期待と不安の狭間でギリギリの精神状態を生きていたのだろうと推測できる。
古びた公営グラウンドでの練習の合間に、引退から間もないミハイロビッチは時折キックを放った。腰をやや斜めに沈めて、十分に踏み込むFKのフォームが見られた日には、何だか得をした気分で帰路についたものだ。
本田との歯車は噛み合っていたようには見えなかったが
15-16シーズンには、ミランでMF本田圭佑を指導した。
だが、本田が開幕から2カ月足らずで起用法に不満を表明したように、2人の歯車は噛み合っていたようには見えなかった。
現実的にEL出場権を争う中で、ミハイロビッチは本田にサイドハーフとしてのプレーをあらためて命じ、それに応じた本田の出場時間は増えた。ただし、それはあくまで業務の遂行に過ぎず、本田について尋ねた時、ミハイロビッチは「すぐれた一兵卒」という言葉を選んだ。「さすがサムライ、日本人らしく忠実に真面目にやってくれている」と褒めはしたが、両者が良好なコミュニケーションを取っていると思えたことはない。
「俺のトミヤスを代表で酷使するな」
だから、ボローニャでDF冨安健洋(現アーセナル)を得たミハイロビッチの表情の違いは明らかだった。成長ぶりを見守る闘将の高揚ぶりときたら。
「トミは本当に日本人か。あいつは必ず大物になるぞ」
「俺のトミヤスを代表で酷使するな」
冨安について語るとき、ミハイロビッチの声のトーンは朗らかそのものだった。
ただし、それは他の信頼をおく選手たちに対しても同様で、会見で内気なアフリカ人若手選手の頭をくしゃくしゃにして発言を促してあげたり、前時代的ともいえる指導哲学を誰より理解していた武闘派MFガリー・メデルとは「俺たち、練習中になんべん殴り合ったかな」と互いに豪快に笑い合ったりした。