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「トミヤスは必ず大物になるぞ」「ホンダはサムライ」闘将ミハイロビッチ53歳で死去…“何度殴り合ったかな”反骨伝説の源とは
text by
弓削高志Takashi Yuge
photograph byLaPresse/AFLO
posted2022/12/19 17:12
ボローニャ時代、冨安健洋をハグするミハイロビッチ。鮮やかなFKアーティストであり、熱血度満点の闘将だった
駆け出し時代、世界のすべてを敵に回していたようなミハイロビッチは、歳月を経て単なるサッカーチームの枠を超えた、任侠的な意味のファミリーを作り上げることができる指導者へと変貌していた。
「戦争と名のつくものはすべて吐き気がする」
病魔に侵されているとはとても信じられないほど、器のでかい、頼れる“オヤジ”だった。
91年、22歳のときにレッドスター(セルビア名:ツルヴェナ・ズベズダ)で欧州チャンピオンズカップを制した。だが、絶頂は一瞬で悲劇へと暗転した。
その年、クロアチア独立戦争が始まり、同国東端の小さな故郷ブコビルは激しい戦闘の末に壊滅した。
50歳を迎えたとき、ミハイロビッチは伊紙『ガゼッタ・デッロ・スポルト』の長編インタビューに応え、当時について語っている。
「戦争と名のつくものはすべて吐き気がする。とりわけ、旧ユーゴスラビアで起きたのは身内が殺し合う最悪の地獄だった。親友に家をメチャクチャに荒らし回され、クロアチア人だった母方の叔父は、セルビア人の親父に向かって『豚野郎、その首かっ切ってやる』と殺そうとした。こんな悲劇がクロアチアでもボスニアでも起きた。あのとき何があったのか、冷静に判断するには2世代分の時間が必要だ」
サッカーの世界でどれほど無法者を気取っても、“本物”を経験したミハイロビッチの前では赤子同然だった。
CLよりもスクデットよりも、死んだ親父に
コロナ禍が始まる前、彼は愛妻を連れて故郷へ里帰りした。鳥の姿は空になく野犬すらいない、未だ廃れ果てた故郷をミハイロビッチは「私にとっては世界で一番美しい町だ」と悲しい目で言った。
イタリアでの暮らしは30年になっていた。
「今や(自宅のある)ローマの町が我が家だ」と断じるミハイロビッチだったが、それでも「頭のてっぺんから爪先まで私はセルビア人だ。長所も短所も私は誇り高きセルビア民族そのものだ」とアイデンティティを決して譲らなかった。
「本当はチャンピオンズリーグもスクデットもいらない。死んだ親父にもう一度会いたい」
あまり知られていないことだが、ミハイロビッチは無頼漢のイメージとは裏腹に芸術や文学を好んだ。前述のインタビューでは、イタリア現代文学の大家レオナルド・シャーシャの著作を流暢に引用した後、人間の尊厳について熱っぽく語っている。