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「毎試合全員抜くつもりでした」三笘薫は筑波大時代から“規格外”だった…スカウトを苦笑させた川崎F入団前の“ある言葉”とは?
text by
いしかわごうGo Ishikawa
photograph byKiichi Matsumoto
posted2022/11/19 11:28
筑波大学卒業後、川崎フロンターレでルーキーイヤーから大活躍した三笘薫。カタールW杯でも日本代表の得点源として大きな期待がかかる
4年後にプロになることを高校卒業の時点で逆算する。“なりたい自分像”を具体的なイメージとして描き、現時点の自分に足りないものや、どんな武器を身につけるべきなのかをしっかりと把握できていた。大学4年間で、三笘は「やるべきこと」を地道に実行し続けた。
例えば筑波大のサッカー部では陸上専門の指導者から走り方のアドバイスを受け、体の仕組みや使い方を論理的に学ぶことでスピードも武器にしていった。ユースではタイミングや技術で相手を抜いていくドリブルだったが、大学では一気に相手を置き去りにする速さも加わった。さらに運動生理学や栄養学についても積極的に学ぶなど、座学にも意欲的だった。
「監督にお灸をすえられた」三笘薫が爆発した天皇杯
もっとも、若い選手には必ず波がある。
順調に成長し続けていた三笘にも、壁にぶつかって停滞したことはあったという。向島がターニングポイントとして挙げたのは、大学2年生のある時期だ。
「それまで順調に試合に出ていて、『自分が、自分が』というのが少し出すぎたのだと思います。ある試合で退場して、チームに迷惑をかけたんです。監督にお灸をすえられて、しばらく試合に出られませんでした。それが人間的な成長につながったポイントだったと思います。大学の良いところは、人として成長できるところ。その休み明けで出た最初の試合が天皇杯で、そこで薫は爆発した。自分の力を発揮して、チームを勝たせたんですね」
その爆発した試合とは、2年生の三笘が出場した6月の天皇杯2回戦のベガルタ仙台戦。そう、全国のサッカーファンに衝撃を与えた、あの有名な試合である。
前半6分、自陣でボールを受けて前を向いた三笘は寄せてくる相手をかわしスルスルと突破。ドリブルで独走しながら仙台陣内で加速すると、ペナルティーエリアに侵入し、相手GKの手を弾く強烈なシュートをたたき込んだのだ。推定約60メートルとも言われるドリブルゴールはまさに圧巻だった。
さらに三笘は後半にも決勝点を挙げ、大学生がJ1のベガルタ仙台を下すジャイアントキリングの立役者となった。「筑波大の三笘薫」の名前が、全国のサッカーファンに知れ渡った最初の試合かもしれない。ちなみにこの時に筑波で背負っていた背番号は9。カタールW杯の日本代表として背負う番号と同じである。