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高校時代の新庄剛志“伝説”…西短付“同期生”が明かす32年前「120m大遠投でバックスクリーンを壊した」「寮の部屋が驚くほどキレイだった」
text by
安倍昌彦Masahiko Abe
photograph bySankei Shimbun
posted2021/12/23 17:05
西日本短大付属高校時代の新庄剛志(1989年撮影)。高校時代に甲子園には一度もいけなかったが、89年のドラフト5位で阪神入りした
「弟が高1で入ってすぐ、新庄と走ってだいぶ開きがありましたから。私も驚きましたけど……ただね、新庄がすごいのは、速いだけじゃないんです。もう、とんでもない体力ですよ。練習の最後でポール間100本とかやるんですよ、あの頃は。もうみんなヘロヘロのクタクタで、往復1分で戻って来い!って、そんなタイムじゃ誰も戻って来られない時に、新庄が走ると『55秒9!』とか言ってるわけですよ。バケモノかって……ね。でも、そのおかげでポール間が終わりになるんですから、ほんと、神さま、仏さま、新庄さまやったですもんねぇ」
なんで、お前、平気なの?
訊かれた仏さま・新庄は、中学のほうがもっと走っとったばい……と、何事もなかったような顔で笑っていたという。
「口数は少ないほうでしたね」
「今は本人に考えがあってそうしとるのか、メディアがそういう演出をしとるのか、派手なキャラの新庄になってますけど、高校の頃は、むしろ口数の少ないほうでしたね。でも肝心な時に、ポコッと言うことにグサッと来るような言葉があって。予選の直前にきつい練習やってる時なんか、『試合に出てるオレたちがコケたら、チームのみんなが泣かないかんのよ』って。僕らが、あれができん、これが難しい…言うて弱音吐いとると、逆に僕らの長所を指摘してくれたり」
新庄中堅手、西村三塁手が奮戦していた頃、1980年代後半の西短付野球部の日常は、苛烈を極めていたという。
「まず今でいう全体練習っていうのが、放課後の4時から12時までですね、夜中の。ほとんどの部員は寮生活ですから、冷たくなったおかずで夕飯。ジャーのご飯があったかいのだけが、救いでね。メシ食って、自分と同室の先輩の洗濯やって、マッサージとか言われて、それから室内(練習場)でバット振ってましたから」
日付け変わって2時、3時が、今でいう「自主練」の時間だったという。
「そんな生活の中でも、まー、新庄ほど練習しとったんは、他におらんかったでしょ。とにかく、いっつも練習ですよ。夜遅くまで、一人で。寮に電話がかかってきても『練習中やから、切って。あとでかけ直すから』って電話当番の部員に言ってね」
「後輩をいじめたこともない」
日常の寮生活でも、むしろ手本になるような部員だったという。