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ジーコの唾吐き、20歳ヒデは鬼軍曹、モトさんの伝説ループ…本田泰人が明かすJ開幕&加茂ジャパン激闘の舞台裏
posted2021/06/01 11:02
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph by
Kazuaki Nishiyama
本田技研工業がJリーグ参入を見送ったことを受け、本田泰人は1992年にJSL2部の住友金属工業蹴球団を母体とする鹿島アントラーズに移籍する。
その決断を下すうえで、大きな影響を与えた人物がいる。
「ジーコだよ。ジーコと一緒にサッカーができるのは魅力的だった。それに、サッカーに集中できる環境も整っていたから」
「白いペレ」と称されたブラジルの英雄は89年限りで現役から退いていたが、Jリーグ参入を目指す住友金属からのオファーを受け、91年に現役に復帰していた。
82年のスペインW杯、86年のメキシコW杯での活躍を見ていた本田にしてみれば、ジーコとチームメイトとなり同じピッチに立てるなんて、夢のような話だった。
ジーコに牽引され、92年のJリーグプレ大会、ナビスコカップで4位に入ったチームにとって転機となったのが翌93年、Jリーグ開幕前に敢行したイタリア遠征である。
なかでも有名なのがクロアチア代表戦だ。1-8で敗れ、ジーコが烈火のごとく激怒。それが、選手たちにジーコスピリットが植え付けられるきっかけになったと言われている。
もっとも、本田がその試合以上に大きかったと感じているのが、10日後に行われたインテル戦である。
「インテルは相手がジーコのチームっていうことで、ほぼベストメンバーだったんだけど、互角の戦いができて、すごく自信になったんだよね。帰国してからフルミネンセとも2試合やって、それもすごくいい内容で。このあたりで俺は『やれるな』って確信したね」
シリーズ制覇「やっぱりメンタルが大事」
93年5月15日、いよいよJリーグが開幕する。
翌日、鹿島はジーコのハットトリックなどで名古屋グランパスに5-0と大勝。これで勢いに乗ると、大方の予想を大きく上回る快進撃を続け、サントリーシリーズ(第1ステージ)を制覇した。
「完全に勢いだよね。やっぱりサッカーってメンタルが大事だなって感じたのは、住金出身の選手たちが自信を付けて、どんどん上手くなっていったんだよね。大野俊三さんもそんなに上手くなかったんだけど、シーズン中にすごく上手くなって、日本代表に選ばれるまでになったから」
年が明けた94年1月、NICOSシリーズ(第2ステージ)覇者で、三浦知良やラモス瑠偉らを擁するヴェルディ川崎とのチャンピオンシップが開催された。
「こんなミーハーなチームに負けられねえ、って思っていた。人気も実力もあって、チヤホヤされていてさあ。完全にやっかみだよね(苦笑)。羨ましい気持ちもあったな」
一方で、ヴェルディを完全に敵視し、試合前からピリピリしている選手もいた。
キャプテンのジーコである。