Jをめぐる冒険BACK NUMBER
ジーコの唾吐き、20歳ヒデは鬼軍曹、モトさんの伝説ループ…本田泰人が明かすJ開幕&加茂ジャパン激闘の舞台裏
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byKazuaki Nishiyama
posted2021/06/01 11:02
ジーコと一緒にプレーできることが鹿島入りを決めた理由だった語る本田氏。チャンピオンシップでの唾吐きは今も鮮明に覚えている
本田に再び先発のチャンスが回ってきたのは、中央アジア遠征を終えてホームに戻ったUAEとの第6戦だった。中盤がダイヤモンドの4-4-2を採用したこの試合で本田は、山口をベンチに追いやり、1ボランチに指名されたのだ。
だが、必勝を期したものの1-1のドローに終わり、本田自身も56分に山口と代わってベンチに下がった。
「俺に求められていたのはカウンターの芽を摘むこと。ただ、なかなか点が取れなくてチームもリズムに乗れなかったし、俺自身も、あれもしなきゃ、これもしなきゃって、守備でやりすぎた感はあったかな。鹿島のときのようにもっとリーダーシップを執って、周りを動かせばよかった。それはちょっと後悔しているな」
結果として、この試合が日本代表における本田のラストゲームとなった。
だから、日本中の注目を集めたイランとのアジア第3代表決定戦――97年11月16日のジョホールバル決戦でも、ベンチ入りを果たしたものの、出番は回ってこなかった。
「俺はリードしている展開での守備固めしか出番はないだろうと思っていたから、とにかくリードしてくれって。出たくて仕方がなかった。でも、岡野(雅行)は、出たくないって思っていたみたい(笑)。しかもあいつ、Vゴールだってことを知らなかったから。延長に入る前、『お前、今さら何言ってんの? 先にゴールを決めたほうが勝ちだから』って説明していたら、あいつ、岡田さんに呼ばれて……」
その岡野のゴールで日本はフランス行きの切符を手にしたが、本田は98年のフランスW杯には行けなかった。
「もちろん、悔しかったけど、すぐに切り替えられたかな。W杯には鹿島から秋田、相馬、名良橋(晃)が出たから、純粋に応援してた。落ちたのは自分の力不足だし、鹿島に専念するだけだなって。ちょうど、面白いやつらが入ってきて、さらに強くなっていきそうな予感もあったしね」
96年シーズンにリーグ初制覇を成し遂げた鹿島は、97年、98年と2年続けてジュビロ磐田とチャンピオンシップを戦い、黄金期を迎えていた。
輝かしい時代がさらに続きそうな予感が、本田にはあった。
きっかけは、本田も認める俊英たちの加入である。
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