Jをめぐる冒険BACK NUMBER
ジーコの唾吐き、20歳ヒデは鬼軍曹、モトさんの伝説ループ…本田泰人が明かすJ開幕&加茂ジャパン激闘の舞台裏
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byKazuaki Nishiyama
posted2021/06/01 11:02
ジーコと一緒にプレーできることが鹿島入りを決めた理由だった語る本田氏。チャンピオンシップでの唾吐きは今も鮮明に覚えている
「ジーコが試合前から怒っていたのは、『なんでホーム&アウェーじゃないんだ』ってこと。うちにはこんなに立派なサッカースタジアムがあるのに、なぜ2試合とも国立競技場でやるんだと。(第2戦の)レフェリーも読売クラブ出身の方だったから、そんなにヴェルディを勝たせたいのかって疑心暗鬼になっていて」
2-0とヴェルディが先勝して迎えた第2戦、鹿島が1-0とリードしていた81分に事件が起こる。ヴェルディにPKが与えられると、三浦知良がセットしたボールのそばにジーコが寄っていき、唾を吐いたのだ。
「ジャッジもヴェルディ寄りに感じられて、ジーコはずっとイライラしていた。でも、ジーコがこの件に関していつも言うのは、『唾を吐いたのは良いことではない。でも、私はサッカーをリスペクトしているから、ボールに唾を吐いたわけじゃない』って」
94年7月、ジーコは再びスパイクを置いた。
入れ替わるように現役ブラジル代表MFレオナルドが加入すると、翌95年には同じく現役ブラジル代表DFジョルジーニョも加わり、その後に迎える黄金期の礎が築かれていく。
サッカー人生で初めてのキャプテン
一方の本田はというと、ジーコからゲームキャプテンを、石井正忠からチームキャプテンを引き継ぎ、鹿島のキャプテンに就任していた。
自身のYouTubeチャンネルが「キャプテン本田泰人チャンネル」というにもかかわらず、実はこのときが、サッカー人生における初のキャプテンだった。
「いや、帝京でも俺がキャプテンのようなものだったんだけどね。本来、帝京のキャプテンって投票なんだよ。でも、俺たちのときだけ、古沼(貞雄)先生が(礒貝)洋光をキャプテンに指名したの。自覚を持たせるためだったのに、あいつ、キャプテンらしいことは何もしなかった。全部、俺がやってたんだから」
ともあれ、名実ともに鹿島の中心選手となった本田だったが、日本代表は遠いままだった。
92~93年に監督を務めたハンス・オフトからも、94年のパウロ・ロベルト・ファルカンからも声は掛からない。95年に加茂周監督が就任しても、本田の名前は招集リストにはなかった。そればかりか、後輩の相馬直樹に先を越される始末だった。
「俺はドーハ(93年のW杯予選)のときから、なんでオフトさんは俺のこと呼んでくれないんだ、ってずっと思っていて。同じタイプの森保(一)さんより、俺のほうが絶対にいいプレーができるんだけどなって(笑)。森保さんはボールを奪取したら周りに預けるだけだけど、俺はもともとFWだし、気の利いたパスも出せるのにって(笑)」
山口負傷で巡ってきた初招集
ようやく日の丸を背負うチャンスがめぐってくるのは、95年10月のことだ。加茂監督の申し子のような存在だった山口素弘が負傷したため、本田が追加招集されたのである。
サウジアラビアとの親善試合で本田は2試合ともボランチとして先発出場を果たした。コンビを組んだのは、当時の日本代表キャプテン、柱谷哲二である。
「テツさんとコンビを組めたのは、すごく嬉しかったね。本田技研でボランチをやることになったとき、チームメイトに帝京の先輩がいたから、どうすればいいか、聞いたの。そうしたら、その先輩が『日産(当時)の柱谷哲二を見て、勉強しろ』って。『あいつが今、日本で一番の守備的MFだから』と。それからテツさんのプレーを観察するようになったんだ。テツさんに挨拶して、そのことを伝えたら、すごく嬉しそうだった」
サウジアラビア戦での活躍が認められ、本田はその後、コンスタントに日本代表に招集されるようになる。
一方、日本代表は96年12月のアジアカップ・ベスト8敗退を境に、下降線をたどっていく。
そんなチームに刺激をもたらしたのが、中田英寿だった。